深く長い河の水はとめどなく流れる。生き物のけがれを洗い、病んだ葉を押し流し、船渡しの詩を乗せ、やがて母なる海にそそぐまで。
「せっかく中国にきたんだから、長江を見てみたいわ」
 新妻の些細なつぶやきをきっかけに、彼は新婚旅行の計画を大幅に変更した。目的地だった呪泉郷への来訪はすでに果たしたので、本来であれば青海省からさらに東へ旅立つ予定だったのだが、進路を変更し、長江の起こる高原・チベットへむかうことにしたのである。
「あたし、乱馬に言わなくちゃいけないことがあるの」
 滾々と流れる水に、ぬけるように色の白い手を浸しながら、あかねは静かにこう切り出した。
「日本を出るときには、気付かなかったんだけどね」
「うん……なんだ?」
 河の汀に立ち、遠景を見晴かしていた乱馬は、穏やかな視線を新妻の水鏡へ落とす。
「あのね…あたしね」
 やおら頬を薄桃色に染めて、乱馬のチャイナ服の裾を引くと、不思議そうな顔をしてしゃがみこんだ彼の耳元に唇を寄せて、
「……赤ちゃんが、できたみたい」
 懐で大事に温めてきた、誰にも知られたくない内緒話をするように、彼女はこっそりとそうささやいた。
 そのままの姿勢で、しばし放心していた乱馬の拳が、やがて膝小僧の上で微かに震えはじめ、その震えが全身にひろがったかと思うと、彼は不意に壊れ物を扱うように彼女を抱き締めて、
「あかね、俺いま…泣きそうだ」
 すんと鼻を啜りながらそういった。
「泣いてもいいか?」
「なによ、男らしくないわねー」
 けれど、笑いながらそういう彼女の瞳もまた、じわじわと滲む涙に濡れはじめていて。
 そのまま、抱き締めあったままで、二人声をたてずに喜びの涙を落とした。
 
「……なああかね、だからこの河を見たかったのか?」
 言葉を咀嚼するようにそう尋ねれば、うん、と目を閉じたあかねがうなずく。
「この河は海に向かって流れるでしょう。──水はいつか、お母さんのところへ帰っていくんだなあって」
 そしてやや間を置いてから、お母さん、と彼女はあるかないかの声でささやいた。
 乱馬は彼女の水で冷えた手を、強く握りしめて、いまはまだ肉質のうすい腹に耳を当て、柳の腰に腕を回して瞑目すると、
「水が流れてる」
 といって微笑んだ。
「お前の腹の中の音かな、それとも河の音かな」
 日光を寄り集めてほんのりと温かい黒髪を撫でながら、彼女は眦を細め、
「どうかしらね……よく似てるから」
 河の行く先へと視線を流した。



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