透明の水の中で、長い髪が糸のように、項垂れる青年の頭をかがっている。側を過ぎてゆく魚達のささやきかけに、ああ朝が来たかと彼は億劫そうに顔を上げて応じ、ふと高みから差す日の眩しさに目を細め、白い手を伸ばす。手首に巻き付く古びた鎖が、水中でがちゃりと音を立て、それ以上は前へ進めない。
「……千尋」
 忘れもしない名を哀愁を込めてささやきながら、美しい青年が涙をこぼすと、それは小さな水晶玉になって、しばしの間水中を自由にただよい、やがて光に吸い込まれてきえていった。
 この水底の牢に閉じ込められてからどれほどの時が経っただろう。
 あの日、人間界へ帰っていく千尋を見送ったあと、彼はその足で魔女のもとへ赴き、約束通り八つ裂きにされる道を選んだ。
 しかし湯婆婆はハクを殺すことができなかった。
 躊躇したのだ。
 最後の最後にして、鉄の心に僅かな慈悲が過ぎったのかもしれなかった。
 中途半端にかかってしまった魔法は、ハクの身体をばらばらに引き裂くことはなく、しかしそれにも勝る激痛を彼の全身に与えた。
 骨が軋み、心臓が暴れ、血は逆さに流れる。気が遠くなるほどの苦しみが引くと、彼の身体は上半身は青年、下半身は龍という中途半端な姿態になっていた。以前のように、魔力と神力を抑えることができなくなり、一声を発しただけで油婆婆の書斎を滅茶苦茶にした。
 ハクの力を恐れた油婆婆は、彼を不思議の街の果てにある湖に連れてゆき、魔法でその湖底に水牢をつくり、そこへ彼を封じ込めた。
 ──またどこかで会える?──きっとよ。
 こんなところに留まっている場合ではないのに。千尋に逢いにいかなければいけないのに。
 ……けれどそれは、今となってはもう叶わぬ望みなのだということを、ハクは知っていた。
 この街で身に付けた余りある魔力と、持って生まれた神力を制御できなくなった今、この水牢から出てしまえば何が起こるかわからない。
 龍神と魔法使いのなりそこないのようなこの姿で、愛しい千尋に逢いに行くわけにはいかない。
 それでも、ほどけることのない手首の鎖を断ち切るように、水上へととどかぬ手を伸ばさずにはいられなかった。
「千尋……っ」
 手中に水を握りしめて、あの日見送った後ろ姿を光のなかに錯覚しながら、彼は湖底のさらに深くへと沈んでいった。



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