花嫁 - 12 - どうやらあの若者とのいさかいは、解決したらしい。 穴蔵に戻ってきた山犬の兄弟は、上機嫌に鼻歌を歌うサンの姿から、そのように解釈した。 夜通し、アシタカと語らった由無し事を饒舌に話すサンの表情は、満ち足りて明るかった。 ありったけを喋り終え、最後の干肉を飲み込むと、彼女は上機嫌に立ち上がった。 「そろそろ、シシ神様に会いにいかなくちゃ」 「シシ神に?」 「ああ。池のところで会う約束をしているから」 朗らかに言う妹に、山犬の兄は面食らう。そして、ひらひら手を振り洞窟から去っていく背を見つめながら、しみじみと思った。あの若者にとっては、まだこの問題は「解決」からは程遠いようだと。 人間嫌いの山犬にアシタカの恋を援護してやる気はさらさら無かったが、それでも少しばかり彼が気の毒に思えてくるのだった。 鍋の中で煮えている雑草粥を見下ろしながら、アシタカは小さな溜息をついた。 「今日はシシ神様と会う約束をしているんだ。アシタカも一緒に行かないか?」 別れ際にサンが持ちかけてきた誘いに、つい頷いてしまった自分に腹が立つ。あまりに眩しい笑顔できいてくるので、断るに断れなかったのだ。 「会ったところで、何を話せと言うのだろう?」 故郷から持ってきた、雅びな椀に粥をよそいながら、アシタカはまた溜息をつく。 俗な物言いだが、シシ神とアシタカは、いわばサンを挟んだ恋敵同士。サンにはそれが分かっていないのかもしれない。だからあんな風に気兼ねなく、アシタカを誘うことができるのだろう。恋敵同士が気軽に話せるはずもないのに。 どちらにせよ、約束したからには行くしかないのだ。会う前から悩んでいても仕方ない。 意を決して粥を一口啜ると、案の定熱すぎて、舌をやけどした。 かつてのシシ神が棲んでいた池は、新たな神の力によって、少しずつ清浄さを取り戻しつつあった。 水面に降り立ったシシ神は翼をしまい、人のかたちをとった。白銀に輝く髪と衣の裾が、透き通った水の上に落ちて波紋を生む。 シシ神は目を閉じて、ゆっくりと片手を上げた。 すると、苔むした土に、色とりどりの草花が芽生え始める。 「まもなくここに、我が花嫁がやって来る。──草花よ、どうか美しく咲いておくれ」 草花は更に背を伸ばし、その色彩を鮮やかにし、みずみずしい露をしたたらせた。 彼の指先に瑠璃色の蝶がとまった。砕いた宝石を散りばめたように、羽がきらきらと輝いている。シシ神が消えて以来、久方ぶりにこの森に戻ってきたのだった。蝶が飛び立っていかないように、指先をそっと自分の方へ近づけ、その羽にシシ神は優しく口づけた。加護を与えられた蝶はますます盛んに羽を動かして、深緑の天蓋を突き抜けていった。 「隠れていないで、出てきてはどうだね?」 シシ神は木陰の一角をちらりと見遣った。 「気が付いておられたのですね」 「神の千里眼をあなどってはいけない。人間の若者よ」 髪に葉っぱをつけたアシタカが、木陰から姿を現した。丸顔のこだまが一匹、肩に乗ってけたけたと笑っているが、気付いていないようだった。緊張し、表情が硬くなっている。 シシ神は水面に足をつけた。足は水に沈むことなく、アシタカに向かって歩みを進めていく。 「身構えずともよい。そなたが武器を手にせぬのであれば、私もそなたを傷付けはしないよ」 「……」 「先日はすまなかった。そなたの弓、あれは特別な弓であっただろうに」 アシタカは拳を握り締め、首を横に振った。 「──私はシシ神に矢を向けた。あなたがシシ神とは知らなかったが、当然の報いを受けたまで。弓のことを、悔やんではいない」 「しかし、東の弓は東でしか手に入らぬのであろう?惜しいことをした」 アシタカは目を見開いた。 「私が東から来たと、あなたにはお分かりか?」 「いかにも。私もかつては、東の果てに棲んでいた」 その時、木々の間からサンがアシタカを呼ぶ声がした。落ち合う約束をしていた場所にアシタカがいないので、さぞかしご機嫌斜めだろうことが声色から窺えた。 「サンがそなたを探しているようだ──。アシタカ、居場所を知らせてやりなさい」 シシ神が朗らかに言った。 【続】 back |