反魂香





 あの春、真宮桜が死んだ。
 俺が浄化しなければならなかった悪霊の手に掛かって。
 すぐに身体に魂を戻すことが出来たなら、蘇生させることが出来たはずだったが、それは叶わなかった。
 彼女の魂は直ちに輪廻の輪へと弾き飛ばされ、追いつく間もなく転生してしまったから。
 数多の死を見てきたはずなのに、この死だけは受容することが出来なかった。
 軽い身体を抱き締めながら、これは行き過ぎた悪夢なのだと、自分自身に繰り返し言い聞かせた。
 頬にはまだ色味があった。睫毛には涙の粒が残っていた。手には温もりがあった。
 だから大丈夫。
 眠っているだけだ。
 きっと今にも目を覚まして、その大きな瞳に俺の顔を映して、どうしたの六道くんと不思議そうな顔をして、俺の名を呼んでくれるはずだ。
 胸の裡で何度も何度も祈るようにそう繰り返した。
 そのまま三つの夜を越した。
 生きたものの時の流れを堰き止めるこの冥府では、魂のぬけた空蝉(うつせみ)すらも在りし時の温もりをとどめる。
 こんなに温かいのに、死んでいるはずがない。
 目を覚まさないはずがない。
 そんな思いに縋り付いた。
 やがて架印と鳳がやって来た。彼女を然るべき場所へ、現世へ帰してやれと二人は口を揃えて言った。
 嫌だと首を横に振った俺に、鳳が涙目になって告げた。
 ──桜はもういないのよ。どんなに待ってても、魂はもうその身体には還ってこない。
 どの言葉も心に浸透することはなかった。そんなものは虚言だと撥ね付けた。
 ──死神が人の死を受け入れられずどうする。
 架印が厳然とした面持ちで叱責した。死神である以前に俺は人間だと思った。
 この時ほど自分の中に流れる人間の血を意識したことはなかった。
 やがておばあちゃんが現れた。彼女の言葉は、架印達が言ったことと全く同じことの繰り返しだった。
 俺は尋ねた。完全な死神ではないから、人間の血が流れているから、だから俺は真宮桜の死を受け入れられず否定し続けているんだろうか、と。
 それは違うとおばあちゃんは言った。
 世界で最も大切な人を失う悲しみは、死神界においても人間界においても普遍なのだと。
 途端に堰切ったように涙が溢れ出した。
 心臓に錐で穴が開けられたように胸が苦しく、そこから色々なものがこぼれ落ちていくようで、生きるために呼吸を続けることすらも苦痛だった。
 身体を揺さぶって、目を覚ましてくれと懇願しても、固く閉じられた目蓋が再び動くことはない。
 これが死なのだと実感した。
 初めて本物の死を見たような気がした。
 もし物理的に命を分け与えることが出来たなら、自分の心臓を抉り出してでも彼女を蘇らせただろう。
 そうしてやれないことが途方もなく悔しく、無力な自分が呪わしく、真宮桜のいないこの先を思うと唯々虚無感が心の底を突いた。
 三日三晩、枯れ草から水気を搾り取るように、涸れ果てるまで血の涙を流した。
 それから現世へ帰った。
 自分自身が空蝉になった心持ちで、荼毘に付される彼女を見送った。
 けれど、火葬場の煙突から立ち昇る煙の中に、もう一度だけ彼女にまみえる術を見出した。
 

 死者の魂を呼び戻す「反魂香」は、死神界における禁術だった。
 反魂香を用いるということは、転生した魂が術者の元へ強制的に召喚されることを意味する。つまりその魂は一時的に、来世で得た新しい身体を離れなければならない。
 魂が抜けている間、その身体は仮死状態となる。一定時間内に魂が戻らなければ、理不尽な死を迎えることも有り得るという。
 魂はつねに来世へと前進するものであり、前世に後戻りすることがあってはならない。
 反魂香は輪廻の理に反する。
 そんなことは百も承知だった。
 それを使えば重大な規則違反と見倣され、死神界の追放は免れないだろう。黄泉の羽織も、死神の鎌も、霊視の能力も全て奪われるだろう。死神界にまつわる一切の記憶を抹消されるだろう。無論おばあちゃんのことも、親父のことも、六文のことも、あるいは死神界と深く関わった真宮桜のことも。
 何もかも見えなくなる。何もかも忘れる。
 それでも俺は躊躇いなく反魂香に火をつけた。
 もう一度彼女に逢えるなら、何を差し出しても惜しくはなかった。
 朧気な桜の香りと共に白煙が立ち昇り、その中に真宮桜は姿を現した。
 彼女は呼び戻されたことに驚いた様子だったが、恨みも怒りも微塵も見せなかった。むしろその表情は穏やかだった。声を詰まらせて謝罪する俺の手を握り締めて、労わるような微笑みを投げ掛けてくる。彼女を死なせた俺に気遣ってもらう資格などないのに。
 それでも勇気を絞って抱き締めて、実は好きだったと告げると、彼女は初めて少しだけ泣いた。
 束の間の逢引の終わりを告げるように、やがて反魂香の煙が少しずつ薄れてきた。
 真宮桜が腕の中からすり抜けて行こうすると、思わず腕に力を込めてしまい、彼女は泣きながら笑った。
 ──また逢えるよ。何度目かの春が来たらね。
 そう言い残し、腕の中で、真宮桜は花びらになって消えた。
 同時に背後に気配を感じ、振り向いたと同時に、頭上に鎌が振り上げられた。
 ──ごめんね、りんね。これが掟なの。
 悲しみに暮れたおばあちゃんの声だった。
 ゆっくりと頷いて、酷い役目を負わせたことを心の中で詫びながら、目を閉じた。
 死神の鎌が身体を断つことはない。それは身体の中にある、目には見えないものを断つ刃物だ。
 だから痛みはなかったが、それでも多くのものが切り離されたのを実感した。
 そしてそれらは彼方へと飛ばされていき、二度と俺の中へ戻ってくることはなかった。




 目が覚めると朧気な桜の香りがした。夢から覚めるといつも香る匂いだ。
 開きかけの文献のページに、窓から降ってきた桜の花びらが散っている。
 調べ物をしている最中、生温かい春風の心地良さに、つい転寝をしてしまったらしい。
 肩からずり落ちた白衣を椅子の背もたれ掛け、背伸びをした。
 手持ち無沙汰に、花びらを一つずつ摘んで掌に乗せると、何故か無性に心がざわついた。
 春が来るといつもこうだった。
 桜が咲くたびに、今年こそはと焦燥する。
 俺は何かを待っているような気がする。
 考えると頭痛が起きるばかりで、それが何なのかは分からないが。
 頭を押さえながら、花びらを窓の外へ放してやると、風に乗ってゆるやかに宙を舞った。
 何気なく目で追っていると、桜の木の根元に不意に人影が現れた。
 砂と花びらが風によって白煙のように立ち昇った。
 ──また逢えるよ。何度目かの春が来たらね。
 遠くから懐かしい声が聞こえる。


 少女がこちらを見て微笑んだ。
 


 

end. 


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