remnant  act.6




 人は恐らく一度知った恋を忘れることはできないのだろう、記憶という大きな湖の底に沈め、忘れたふりを装うことはできたとしても。水底を覗いてみればその名残は確かに存在し、そしてふとした瞬間に浮かび上がってくるのだから。
 それが以前と同じ狂おしいほどの感情を呼び覚ますことはなくとも、すくい上げてみて懐かしく思うことはあるだろう。あるいは一抹の喪失感を覚えることもあるかもしれない。
 知ってしまった恋の数が少なければ少ないほど、そのひとつひとつの存在は大きくなり、ますます忘れがたいものとなる。
 
 
 帰宅して早々、バスケの試合でかいた汗を流すために、乱馬は浴室へ直行した。
 が、どうやら先客がいたらしく、脱衣所には着替え一式が置いてあった。見馴れたあかねのパジャマと下着だった。
 一度は引き返そうとした乱馬だったが、ふといたずら心を起こし、笑いを堪えながら服を脱ぎ始めた。裸になると腰にタオルを巻いて、抜き足差し足で浴室の引き戸に近付いていく。
 今夜は実に都合のいいことに、お邪魔虫達が揃いも揃って家を空けている。留守を預かるのは乱馬とあかねだけだ。二人だけの時間、二人だけの場所、今夜は何をしても自由だ。好機逸すべからず、夜を徹して心置きなく、心行くまで彼女を堪能する心積りだった。
 乱馬はそわそわしながら引き戸に手をかけた。桶がとんでくるか水がかかってくるか、予期しうる限りのあらゆる制裁を思い浮かべながらも、密室にしてしまえばこちらのものだと北叟笑む。
 がらがら、と音を立てて引き戸が開いた。中には乳白色の蒸気が立ち篭めていた。あかねが気に入っている、カモミールの入浴剤の香りがする。栓が緩んでいるのか、蛇口から水滴が落ちて、木桶に溜まる音が聞こえる。
 まだ彼女が気付いた様子はない。
 動悸を覚えながら、タイルの上に乱馬がそっと足をつけると、湯舟に人影が浮かび上がった。
 あかねはそこにいた。が、様子がおかしいことに、乱馬はすぐに気が付いた。
 彼女は浴槽の渕に首を垂れ、ぐったりとしていた。
「あかね!?」
 乱馬は慌てて彼女を湯舟から抱き上げ、彼女の額に自分の額を合わせた。とても熱かった。
「バカ、のぼせてんじゃねーか!」
 そのまま浴室を飛び出し、体温計やタオルを引っ掴むと、階上へ駆け上がっていった。
 

 乱馬が甲斐甲斐しく世話を焼いてやったため、一時間も経つと、あかねは熱も治まって大分楽になったようだった。
 彼はほぼ全裸の状態のまま、ベッド脇に仁王立ちになり、呆れ顔をした。
「おめーはバカか?二時間も風呂に浸かってるアホがいるかっ」
 冷やしタオルを額に乗せてもらったあかねは、顔を手うちわで扇ぎながら、唇を尖らせる。
「ちょっと考え事してたのよ。しょうがないじゃない、二時間も経ってたなんて知らなかったんだもん」
「考え事っつったってなー…時間を忘れるほど何を考えてたってんだ?」
「別に、ちょっとしたこと」
 と言いつつ、あかねはさり気無く乱馬から視線を逸らした。彼はそれを見逃さなかった。
「あかね、おめー何か俺に隠してねえか?」
 彼女は微かに肩を揺らしたが、別に何も、としらを切った。乱馬は頬を膨らませた。
「じゃあ何で目合わせねえんだよ。俺の目を見ろよ」
「だから、何も隠してなんか……」
「こっち見ろって」
 乱馬はあかねの顔の両脇に手をついて、彼女の顔をじっと見下ろした。彼がベッドに片膝を乗せると、スプリングが小さく鳴った。
「ら、乱馬?」
 あかねの頬に、折角引いたはずの赤みが再びうっすらと浮かび上がった。乱馬は拗ねた子供のような顔をしていた。彼女の前髪をかき上げると、冷やしタオルを放り投げ、冷たくなった額に唇を押し当てた。
「……東風先生と何かあったのか?」
 彼女の耳もとに唇を寄せ、低く掠れた声で乱馬は尋ねた。あかねは身を固め、口を貝のように閉ざした。
「言えねえのか?」
「……」
「ふーん…言えねえようなことでもしたのか?」
 ──例えばこんなこととか?
 と、乱馬は彼女のパジャマの裾を僅かに捲り上げ、ぬけるように白い腹部の臍から上へ上へと、ゆっくり指を這わせた。彼女の肩に微かな震えが走った。
「ばっ……そ、そんなことするわけないでしょ!」
 羞恥と憤慨に頬を真っ赤に染め上げ、あかねは勢い良く上半身を起こした。拍子に額と額がごつんとぶつかり、双方とも涙目になって悶えた。
「いてて……でもまあ、そうだよな。こんなこと、俺とじゃなきゃ出来ねえよなあ」
 と、赤くなった額を摩りながら、乱馬は不敵な笑みを浮かべた。やけに満足気な様子なのが鼻持ちならず、あかねはつい要らない一言を言ってしまう。
「調子に乗らないでよね」
「なにい?そんなこと言う奴は、こうしてやるっ」
 乱馬はあかねのパジャマに手を入れると、脇腹をくすぐり始めた。あかねは手足をばたつかせ始め、息も絶え絶えに笑い声を上げた。
「や、やめて、ったら!もー離れてよ!」
「やーだね」
 乱馬はそのままあかねを強く抱き締めると、切れ切れに息をつく彼女の呼吸が一定に収まるまで待った。それから掠れた声で、電気を消したほうがいいか訊いた。彼女はぎこちなく頷いた。
 ほのかな常夜灯が、闇の中からかろうじて、互いの身体の輪郭を際立たせる。
 彼女の中で、ひとつの懐かしい恋がまた、水底の奥深く沈んでいった。

 


To be continued


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