罠 街路は異国情緒に満ちていた。少なくとも彼にとっては。 雅びな六角宮灯と紅ランタンが連なっている。中華料理特有の油染みた匂いと、吉祥の恩恵を願って装飾された赤色が辺りを取り巻いている。 辮髪帽を被って黙々と拉麺を啜る者もあれば、スリットから脚を大胆に覗かせて歩く者もあり、でんでん太鼓を鳴らして赤子をあやす者もある。 やはり異国だ。 どうしても馴染めない。 飯店からそれらの光景を見詰めていた乱馬は、茶杯を机上に置くと、八角帽のつばを下げた。 席を立とうとしてはたと気付く。 誰かに見られている。 横に視線を遣る。 双蝶と牡丹のあしらわれた中華服を着た少女が微笑んだ。 「お兄さん、かっこいいね」 レンゲで掬った炒飯を口元に運びながら、暢気な声で少女はいった。 乱馬は肩を竦めてみせた。 「日本人でしょ」 「わかるのか?」 「なんとなく。でも中国語わかるんだね」 「まあ、結構長くこっちに居るし」 「どのくらい?」 五年、と乱馬は答えた。長いね、と少女は目を瞠った。 「なんで中国に来たの?留学?」 「いや、婚前旅行」 少女はレンゲをぽろりと零した。 「お兄さん、そんなに若いのに結婚してるの?」 「する予定だったんだけど……」 乱馬は困ったような微笑を浮かべた。 「振られちゃったの?」 「……それならまだ良かったかも知れない」 触れてはいけない傷に触れてしまったように思えたのだろうか、少女はまごついた様子を見せる。 乱馬は八角帽のつばを更に下げた。 「いなくなっちまったんだ。許嫁が」 「いなくなった?」 「ああ、旅行の途中に忽然と。神隠しにでも遭ったみたいにな」 机の上に置かれた拳が震えた。少女は気の毒そうな眼差しを向けた。 「それでお兄さん、その許嫁を捜してるの?」 乱馬はこくりと頷く。 「あちこち捜し回ってるけど、どこにもいないんだよな。まったく、どこで道草食ってやがるんだか」 「日本には帰らないの?」 「……帰れるわけねえよ。あいつを見付けてやらないことには」 乱馬は苦笑し、顔を上げた。 一瞬窓の向こうを見据えて、彼の呼吸が止まった。 「嘘だ」 弾かれたように立ち上がった。突然のことに驚く少女を置き去りにして、脱兎のごとく駆け出していく。 「あかね!」 少女は切実な声の響きを聞いた。 異国の青年の後ろ姿はすぐに雑踏の中へ呑み込まれてゆき、見えなくなった。 少女は彼が落としていった八角帽を拾い上げた。 口元が緩やかに弧を描いた。 end. (2012 Mar - Apr Clap) back |