逢魔 - 4 - 土砂降りのせいで土壌がぬかるみ、また視界も悪く、険しい山道を進むのにりんね達は難儀した。 ちょうど六遠寺の門前を通り過ぎようとした時、この寺の住職と遭遇したので、二人と一匹は暫しの間、雨宿りにお邪魔することになった。 が、悪天候のために交通機関が麻痺したことを聞かされ、都心部に帰れなくなった彼等は結局、この寺に泊めてもらうことを余儀なくされた。 「山の天気は変わりやすいとは言うものの、今晩の空模様はちとおかしいですなあ……」 壮年の住職はぽつりと呟くと、湯気の立つ煎茶を啜った。 借りたタオルで濡れた髪を拭いていたりんねが、座布団の上で居住いを直す。 「ご厄介になり、本当に申し訳ないです。……こんな天気になると分かっていたら、もっと早くに山を降りるべきだった」 「いやいや、厄介だなんてとんでもない。仏の道に仕える身として、人助けは当然のことです。それにあまりご自分をお責めにならずに。どの道この悪天候は、気象予報士ですら予知することは出来なかったでしょうからねえ」 自分の膝に乗っている六文を拭いてやっていた桜は、その手をはたと止めた。 一応一般人の面前なので、子猫の姿を留めている六文だったが、住職の静かな視線がじっと注がれると、冷や汗を流して凍り付いた。 「……その黒猫。この世のものではありませんな」 住職は受け皿に湯呑みを戻した。 「あちらの世の気配がする。そして、あなたも」 視線を向けられると、りんねは微かに表情を強ばらせた。 「よく、お分かりで」 「だてに修行を積んではおりませんのでね。あなたがたは大方、死神とその契約黒猫というところでしょうなあ」 「死神をご存知なのですか」 住職は目尻に皺を刻み、微笑を浮かべた。 「仏の道は、六道輪廻へ通ずるものなれば」 桜はりんねの横顔を一瞥した。 「ああ、そうそう。我が寺には、西藏のさる寺院より譲り受けた曼陀羅がありましてな。見事な六道輪廻図ですので、夕食の後にでもお見せいたしましょう」 「……」 「しかし何よりも、まずはお洋服を召し変えられたほうがよろしい。風邪を引かれては難儀でしょう。湯の支度が出来ているとよいのですが」 住職は障子を半分ほど開け、誰かの名を呼んだ。 「はい。今行きます、父さん」 と、少し離れたところから少年の落ち着いた声が聞こえた。 間も無く、和紙の貼られた障子に、人影が透けて見えた。 桜は風呂を使わせてもらい、住職の息子・純が貸してくれたジャージに着替えた。男物なだけあってさすがにぶかぶかだったが、濡れた服を着ていて風邪をひく一歩手前だった桜には、どんな着替えだろうが有り難いことには変わりない。 広々とした客間に戻ると、りんねが座布団の上に胡座をかいて、何かをじっと黙想していた。液晶テレビからは気象予報が流れていたが、それを聴いているわけではないらしいことは明らかだった。 大方りんねに気を利かせたのだろう、六文の姿が見当たらない。 「お風呂、上がってきたよ」 たったそれだけのことを伝えるのが、桜にはやけに難儀に思えた。 りんねがゆっくりと目を開けた。 「純くん、六道くんにも服を貸してくれるって。お風呂場に行く前に声をかけてほしいって言ってたよ」 そうか。 と一言呟くと、りんねはジャージ姿の桜を見上げた。 桜は光の速さでテレビに視線を移した。 「もっと面白い番組、ないかなあ」 手持ち無沙汰に机の上のリモコンを取り、適当にチャンネルを回す。 お笑い番組に集中しようとすればするほど、横顔に感じる視線が気になって仕方がない。 外から聞こえる雨音は、収まるどころか更に強まっている。 「全然止まないね。雨」 「……ああ」 「さっき家に電話したら、あっちは雨なんか降ってないって」 「……そうか。不思議だな」 「うん」 「……」 「……さっきは、」 何を考えてたの。 と尋ねかけて桜は口を閉ざした。 かりかりかり。がりがりがり。 外から何かで壁を引っ掻く音が聞こえる。 「……なに、この音?」 リモコンを握り締めて、桜は眉を顰めた。 「幽霊…なの?」 「……ああ。そうだろうな」 疲れた表情でりんねは言った。 途端、液晶テレビの画像が乱れ、砂嵐になった。 土砂降りの雨音に似た音声に、途切れ途切れの声が織り重なる。 「……六道輪廻の…間には…ともなう、人、も……」 「うるさい」 「なかり、けり…」 「うるさいっ」 りんねは液晶テレビのコンセントを力一杯引き抜いた。 画面から砂嵐がふつりと消えた。 途端、耳を劈くような絶叫が、テレビのスピーカーから上がった。 「耳を塞げ、真宮桜。聴き続けていると気が触れるぞ」 りんねが緊迫した声で言った。黄泉の羽織を彼女に被せる。 桜は両手で耳を抑え、目を固く瞑った。羽織の上から、りんねの腕が彼女を守るように抱きかかえたのを感じた。 「どうして、あの人にそんなに冷たくするの?」 困惑しながら桜は訊いた。自分の出した声が聞こえないほどに、おぞましい叫び声が鳴り響いている。 「どうして?あの人はきっと、六道くんのことが──」 りんねは腕に力を篭め、皆まで言わせずに低く呟いた。 「……突き放さなければ、駄目なんだ」 電気が点灯と消灯を繰り返す。 天井からは雨漏りが落ちてくる。 壁に掛かった時計の針は逆さにまわる。 掛軸の水墨画がどろどろと流れ落ちる。 いずこへ通じるか定かでない、いびつな空間に引きずり込まれないように。 腕に抱きこんだぬくもりの確かさに心をとどめ、りんねははっきりとした声で告げた。 「すまない。だが俺は、お前を救うことができないんだ」 障子に映った少女の影が、髪を振り乱し、長い角を生やした頭を抱えて倒れ伏した。 絶叫はやがて切れ切れになり、しまいには雨音の中に封じ込められていった。 To be continued back |