北斗星君




 格子窓を開け放つと、群青の夜空に無数の金剛石が散りばめられていた。
 昼間が晴天だったせいか、雲ひとつない、星の綺麗な春の夜だった。
 嬉しそうに手を叩いて、千尋は背後を振り返った。
「ねえねえ、ハク!」
「ん?なんだい千尋」
「ちょっとこっち来てみて、星が凄いから!」
 明かりをつけようとしていたハクが、微笑みながら彼女の背後に歩み寄ってきた。
 窓の木枠に手を置いて、千尋は感嘆の溜息をこぼす。
「どれどれ……ああ、これは本当に絶景だね」
 ハクが彼女の肩に手を置き、魅入られたように言った。
「ここのところ長雨続きで、星が見えなかったからね。今日は一段と空が綺麗に見えるよ」
「そうだよね、プラネタリウムにいるみたい……!」
「プラネタリウム?」
「うん。雨の日でも昼間でも、こんな風に星が沢山見られるところだよ」
 興味をそそられたらしいハクは目を輝かせた。
「それはいいね。是非私も見てみたいな」
「じゃあこの週末、あっちに帰ったら行ってみる?」
「それは嬉しいけれど、いいのかい?確か今度向こうへ帰る時は、どこかへ買い物に行きたいと言っていなかった?」
「いいのいいの、そんなに時間がかかるものでもないし。見終わったあとでも充分時間はあるから。どっちにしろその日は一日中わたしとデートの約束だったもん、ちょっとくらい遅くなってもいいでしょ?」
 と、千尋は甘えるようにハクの胸にしなだれかかった。優しく微笑みながら、ハクが彼女の肩を抱き寄せる。
「もちろんだよ。千尋と一秒でも長く一緒にいられることが、私の何よりの幸せなのだから」
「またまたそんなこと言って。ハクは本当にわたしを甘やかすのが上手だよね」
 千尋がぽっと頬を染めて言った。ハクは静かな笑い声をたてて、彼女の柔らかな髪を撫でる。
「今度もまた楽しい逢引になりそうだね。今から楽しみだ」
「うんうん。リンさんと坊を連れて行けないのが、ちょっと残念だけどね」
 いや、あのお邪魔虫達はついてこない方がいいに決まっている、という本音は心のうちに留めることにして、ハクは終業後の恋人との安らぎのひとときに身を投じた。


 夜が更に深まった頃、ハクは千尋を背に乗せて、短い夜間飛行を満喫した。夜空に散りばめられた星々の明かりが、ハクの鱗に反射して輝くのを、千尋は子どものように喜んだ。
 やがてハクは高度を低めていき、草原のところで完全に静止した。千尋はハクの背を降りるなり、草の上にごろんと横になった。その隣に、人の姿に戻ったハクも寝転んでみる。
 周囲に高い建物がないおかげで、空がまた一段と広く見えた。
「あ。見てごらん、あそこに北斗七星が」
 と、ハクがおもむろに天空を指差した。千尋はその先に目を凝らす。
「うーん、どの辺?」
「もう少し上の方を見て。あの、柄杓の形をした七つの星だよ」
 ハクは細い指の先で宙に線を結んでみせるが、千尋はますます難しい顔をするばかりだ。
「どれどれ?」
「もう少しこちらへ寄ってごらん。ほら、あの一際輝いている星が北極星で……」
 刹那、ハクの指し示した先で、流れ星が夜空にすっと斜線を引いた。
 千尋が歓声を上げた。
「ハク、今の流れ星だったよね!」
「そうだったね。千尋、何か願い事は出来た?」
 無邪気な反応に瞳を細めながら、ハクが尋ねると、食い入るように夜空を仰ぐ千尋はまた「あっ!」と声を上げた。
「また流れ星!でも、早すぎてまた何も願えなかったなあ」
 そうこうしているうちに、夜空を過ぎる流星は一つまた二つと増えてゆき、しまいには地へ降ってくるかと思われるほど沢山の流星が、紺碧の空に現れ始めた。トライアングルを鳴らしたような繊細な衝突音が、しきりに聞こえてくる。
「ね、ねえ、なんか凄いことになってきてない?」
 流星群の大合奏を聴きながら、はしゃぐのをやめた千尋が顔を引き攣らせた。
 ハクは片眉を動かして、おもむろに上半身を起こした。
 途端、草原に強い夜風が吹き抜けた。
「え、なに!?」
「しっ、静かに」
 ハクは千尋を袖の中に素早く隠し、長い髪を強風に散らしながら、鋭い眼差しで辺りを見渡した。
 星のぶつかりあう音が一際強く鳴り響き、二人の正面で目映い光が弾けた。
 千尋はあまりの眩しさに目を瞑ったが、ハクはしっかりと目を開けたまま、光の中に突如として現れた何者かを見据えていた。
「ほほう。龍と人間の娘の逢引とは、なんとも酔狂な」
 夜空のように深い声がした。
 同時に星の音は段々と小さくなっていき、やがて完全に夜のしじまの中へと消えていった。


 目を開けてみると、見知らぬ男がすぐ側で自分をじっと見下ろしていたので、千尋は仰天した。
 装いのなんとも雅びな男だった。頭には飾りが沢山ついた金の冠を被り、星明かりがふんだんに織り込まれた紺碧の装束で身を包んでいる。星色の髪は踝ほどまで長く、瞳は装束と同じ夜空の色をしていた。
 この異形の男が、その造形の整った顔をあまりにも近づけてくるので、千尋はついどぎまぎした。後ろにじりじりと下がると、冠の飾りをしゃらしゃらといわせながら、男は彼女に躙り寄っていく。
「北斗星君、悪ふざけも大概にしてください。その娘は私の許嫁です」
 明らかに不満げなハクの声が聞こえ、千尋ははっと横を向いた。瞬間、ハクは彼女を腕の中に抱きかかえて、男から引き離した。
「おお怖い。龍は悋気が強いというのは誠のようだな」
 北斗星君と呼ばれた男が、象牙の笏を口元に当ててくすくすと笑った。
「娘よ、すまなかった。龍が見初めた人間がどのようなものであるのか、少しばかり興をそそられてな」
「は、はあ…」
 北斗星君はおもむろにすっと立ち上がり、夜空に目を凝らした。
「先程我が星の名を呼んだのは、そなただったか?白龍」
「はい。まさかあなたをお呼びしてしまうことになろうとは思わず、申し訳ありません」
「謝らずともよい。今夜は他の星共がやけにやかましくて、いささか空にいるのが窮屈だったところだ」
 北斗星君は鷹揚に笑ってみせた。ハクと共に立ち上がると、千尋はついまじまじとその男を見詰めてしまった。そして再び視線が合うと、まるで人見知りの子のようにハクの背後に隠れた。
「娘よ、そう警戒せずとも、そなたをとって食らおうなどとは思っておらぬよ」
 気さくに笑う彼を、千尋はハクの背後からおずおずと見遣る。
「私は北斗星君、北斗七星と死を司る神だ」
「死?死を司るってことは…死神?」
「いかにも」
 千尋は戦いた表情を見せた。ハクはそんな彼女を宥めるように優しく言った。
「大丈夫だよ。この方は、そなたの魂をこの場で抜き取るようなことはなさらないから」
「う、うん、でも死神っていうからついびっくりしちゃって……」
 北斗星君は興味深気に目元を細めた。
「人間は死を恐れ、ゆえに死を司る私を恐れるらしい。私が鎌など振り回して魂を狩るとでも思っているのだろうな。私はただ、星が定めた万物の運命を読み解き、ここに記しているだけなのだが」
 と彼が言うと、懐から一巻の巻物が独りでに浮き上がり、宙で紐解かれた。
「どれ。名を教えてはくれぬか、娘よ」
 微笑みながら問われると、千尋は素直に名を言いかけて、慌てて口を噤んだ。不思議そうな顔をした北斗星君に、ハクが如才無く説明した。
「この娘は、かつて魔女に名を奪われたことがあります。ゆえに、人外のものには真名を決して名乗らぬよう言い聞かせておりました」
「なるほど、それは賢明なことだ。しかし私はその娘の名を奪いはせぬよ、白龍。星が定めたその娘の寿命を読むだけだ」
 不本意そうではあったが、ハクは千尋に視線で名乗ることを促した。
 千尋がぼそぼそと真名を口にすると、北斗星君は顎に手を当てて「ふーむ」と首を傾げた。
「して、その字はこうか?」
 彼は空中に指先で文字を書いた。すると白のチョークで書いたように、四つの漢字がぼうっと浮かび上がった。荻野千尋。間違いなく彼女の真名だ。
「はい、その漢字です」
「そうか。ではそなたの寿命を読もう」
 北斗星君は袖を振って宙に浮かんだ文字を消すと、星空を見上げ、千尋にはわからない言葉を早口で呟いた。そして空に手をかざし、先程ハクがしていたように、星と星との間に指先で線を引くような仕草を見せた。
「ふーん。人間にしては長生きをするようだ」
 どれか一つの星を笏で指し示して、北斗星君はそう言った。千尋は、ハクの表情が少しばかり緩んだのを見逃さなかった。
「だが、龍の連れ合いとしてはやはり短すぎる。少しばかり延ばしてやろうか」
「えっ?そんなことしていいんですか?」
 仰天する千尋に、北斗星君はにやりと笑い掛けた。
「私は人間の命を延ばすことも縮めることも出来る」
「で、でもどうやって……」
「何のことはない。ただ、ほんの少し星の位置を変えてやればよいだけのこと。さすれば自ずと、運命も変わるものぞ」
 言うなり北斗星君は、答えも待たずに再び夜空を仰ぎ、流れるように笏を動かしてみせた。すると一つの星が流星になって、輝く軌跡を空に引いた。
「これでよし。この程度の寿命が延びたところで、龍のそなたにとっては気休めにしかならぬであろうが、気侭な星の気紛れな善意として受け取ってほしい」
 と、笏を口もとに当てて、片目を瞑りながら北斗星君が告げると、ハクは肩を微かに震わせ、深々と頭を下げた。
 何が何だか分からぬうちに、千尋も慌てて辞儀をした。


 翌日の同じ刻限に、礼の品を持参したハクと千尋は再び夜の草原を訪れたが、夜明けまで待ってみても、北斗星君が二人の前に現れることはなかった。その次の日も、そしてそのまた次の日も。
 千尋はハクの肩に頭の重みをあずけて、連日の夜更しが祟った眠そうな目で、夜空を見上げた。
「あ……北斗七星、今日も光ってるね」
「分かるようになったのかい?北斗七星のある場所が」
「うん。なんとなく…ね」
 千尋は欠伸を噛み殺しながら言った。ハクはその肩を抱き寄せて、少しお眠りと囁いた。
「私が起きてあの方をお待ちしてみるから」
「でも…」
「明日はプラネタリウムに行く日なのだから、ね?」
 千尋の耳元でそう囁くと、ハクは一際天高く輝く北斗七星を仰ぎ、瞳を微かに細めた。
 気儘な星々が、今日も紺碧の夜空を流れてゆく。




end.


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