remnant  act.5




 あかねは接骨院の引き戸を、なるべく音を立てないように気遣いながら引いた。玄関口に一歩足を踏み入れた途端、いつもと同じ消毒液の匂いが鼻を掠める。
 待合室のベンチに人の姿はない。奥の診察室の戸は半分ほど開いていたが、そこにも患者がいる気配はない。あかねはスリッパに履き替えると、抑えた声で東風の名を呼んだ。返事がないので抜き足差し足で、診察室の戸に近付いていく。
「東風先生…?」
 半分開いた戸からあかねが顔を覗かせてみると、涼やかな風がその頬を撫で付けた。前髪を押さえながら、彼女は開け放たれた窓を見やる。レースのカーテンがなめらかな動きで揺れている。
 その窓際の仕事机で、診断書を書きかけていたらしい東風が、静かな寝息を立てて眠っていた。あかねは足音を忍ばせて彼の側に近寄った。ボールペンの先が診断書の書きかけの項目からはみ出して、机によれよれの線を残している。そのすぐ側に置かれた眼鏡のレンズが、木々の間から差し込む夕焼けを映して星のようにきらめいている。
 あかねは暫くの間、机に頬杖を付いて、その寝顔を見詰めていた。そうしているうちに、窓から吹き込む夕方の風は段々と冷たくなり、彼女が手の中で思わず小さなくしゃみをこぼした瞬間に、閉じられていた二つの目はぱちりと開いた。
「か……」
 東風は言いかけて口を噤み、焦点の合わなくなった瞳で、力無くあかねに笑い掛けた。誰を呼ぼうとしたのか、それは幾ら彼が隠そうとしたところで、あまりにも明らかだった。
 ……つらい思いをしているんですね、東風先生。
 あかねはそんな東風が不憫でならず、陰気臭い空気を吹き飛ばすような満開の笑顔を咲かせ、背に隠していた土産を彼に差し出した。
 視界を埋め尽くす小さな花を見て、目をぱちぱちと瞬かせる東風に、あかねは朗らかに言う。
「かすみ草です。商店街のお花屋さんで見つけて、うちに飾りたくて買ったんですけど、あんまり可愛いからたくさん買いすぎちゃって」
「……僕にくれるの?」
「もちろん。先生もきっと、かすみ草…お好きですよね?」
 少し遠慮がちに尋ねるあかねに、東風は眉を下げて微笑んだ。小さく頷いてみせ、ありがとうと囁くように礼を言う。今度はもう寂しそうな様子ではなかった。あかねを見詰める夜色の瞳は、凪いだ水面のように穏やかだった。
 あかねは、東風が少しでも元気を取り戻してくれたことが嬉しく、心が温まる思いだった。
「そう言えば、東風先生。かすみ草って、英語で何て言うかご存知ですか?」
「英語で?分からないなあ…何て言うの?」
 小さな花をたくさんつけたかすみ草の枝を見下ろして、あかねは愛おしむように言った
「baby's breath、赤ちゃんの吐息、って言うみたいですよ。かわいい名前ですよね。初めて知った時、この花にぴったりだなって思いました」
「赤ちゃんの吐息…」
「言われてみれば、この花ってそんな感じがしませんか?何ていうのかな、すごくささやかな感じ。薔薇と一緒に花束にされてたりすると、薔薇が目立つせいでどうしてもかすんで見えるけど、でもこの花があると全然違うんですよね。あまり目立たないけど、欠かせない存在というか。だから、だからあたし…」
 熱弁を振るいながら、あかねは瞳から涙がぽろぽろと零れ落ちるのをどうすることも出来なかった。東風を励ますつもりでいたはずなのに、これでは元も子もなかった。
「……すみません、ちょっと色々考え出したら止まらなくて」
 東風に背を向けて、あかねはハンカチで目の端を抑えた。涙が完全に止まると、何度か笑顔を浮かべる練習をしてから、振り返った。
「東風先生、もし良かったらそのお花、花瓶に……」
 それ以上は言葉が続かなかった。東風があまりにも優しく、振り向いた彼女を抱き締めたから。
「せ、先生……?」
 あかねは驚愕するあまり、手から鞄が落ちたことにすら気が付かなかった。乱馬も長身だが、東風は更に上背があるので、彼女はすっかり抱き抱えられている状態だった。自分がやはり男に包み込まれる女の身であることを自覚すると共に、背後に確かな男の存在を意識する。
 激しく動揺する彼女に、東風が溜息をつくように告げた。
「……どうして君のような女の子のことを、妹みたいだ、なんて思っていたんだろう」
 あかねは動悸を覚え、拳を強く握り締めた。そよ風に乗って、住宅街のどこかに咲く金木犀の甘い香りが漂ってくる。
 東風は聞こえるか聞こえないかの声で、短いながらも重大な意味を持つ言葉を囁いた。あかねはこぼれんばかりに目を見開いた。振り返ると、東風は優しい瞳で彼女を見詰めていた。また動悸がした。ぎこちなく数歩後ずさると、踵に先程落とした鞄が当たり、彼女はそれを素早く拾い上げて、逃げるように診察室から飛び出した。
 通り過ぎた銀杏の木から、羽休めをしていた鳥達が飛び立っていく。弾みで枝が震え、黄色い葉と青い実がはらはら、ぽとぽとと落ちる。
 自然が一定の状態に留まることが出来ないように、人の関係もまたいつかは変わってしまうものなのかもしれない。
 それが常理と分かってはいても、絶対に不変であるはずと信じて疑わなかった人との関係に、そのように変化の兆しが生じたことに、あかねの心はただざわつくばかりだった。





To be continued


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