逢魔  - 3 -





 濡れ鼠になった六文は、自分を抱き締める桜の腕に、確かに力が籠ったのを感じた。大丈夫、りんね様がきっと何とかしてくれますよと、安心させるように小さな前脚で冷たい手に触れてみる。
 だがそれは無益だった。桜は腕に抱いている六文の存在など忘れてしまっているようだった。恐らく彼女は、持てる意識の全てをりんねの方へと傾けていた。
「りんね様」
 実体のない半透明の少女ははっきりとそう呼んだ。そして六文を抱く腕の力はまた強まった。
「わたしに、逢いにきてくださったのでしょう?」
「……」
「りんね様?」
 りんねは桜の足元に視線を落とし、首を横に小さく振った。少女は一瞬悲しそうな表情を湛えたが、すぐにそれをかき消した。
 白い着物に白帯を締め、長い髪を低い位置で束ねた少女は、りんね達よりも幾つか年下のように六文には見えた。されどあどけなさは既になく、口もとには婀娜な笑みを浮かべている。りんねに語り掛ける口調はまごうことなく、愛しい男と向き合う女のそれだった。
 どうやら主人とこの幽霊との間には、何らかの因縁があるらしい。それも一筋縄ではいかない厄介な事情であることは間違いない。女難のからんだ事情とあれば、下手をすれば、主人と桜との関係に亀裂が入るような事態に陥ることも有り得る。
 六文は緊張に身を強ばらせた。今すぐに桜をどこかへ連れ出すべきかもしれなかった。しかし契約黒猫として、果たして主人をここへ一人残してよいものか。気を利かせるべきか、責務を全うすべきか。咄嗟の判断をつけ難かった。
「さ…桜さま、」
 六文は微かな声で彼女を呼んだ。やはり聞こえていないようだった。桜はただじっと、幽霊に懇ろに抱き着かれているりんねを見詰めている。何が起きているのか、逃げ出さずに見定めようとする目だった。
 その目を見て、六文は漸く留まることを決意する。何よりもまず、主人と幽霊との因縁を見極めなければならないと思った。
 少女が感じ入るように言った。
「忘れもしません、あの日のことを。六道りんね様……無縁仏として納められ、参る者もなく孤独なわたしを、あなたは見付けてくださった」
 沈黙を墓石と石畳の上で跳ねる雨音が打った。やがて一切の表情を排したりんねが、抑揚なく言った。
 ……人違いですよ、と。
 雨脚がまた一段と強まった。六文は桜の腕の中で身震いした。
 りんねは突き放す口調で続ける。
「申し訳ないが、俺はあなたを知らない。あなたが言っていることが何のことだか、皆目見当がつかない」
 少女は口もとで薄く笑いながら、りんねの正面にまわった。視線を合わせようとしないりんねの頬を手で挟んで、無理矢理自分の方を向かせる。
「嘘が下手な方」
「……」
「あの時もちょうど今と同じ、逢魔が刻でしたね。薄暗い墓地の中で、あなたは独りで誰かの墓を見ていた。何時間も何時間も、わたしと同じ…独りぼっちで」
「……黙れ」
 感情を落としたりんねの声が遮った。少女はくつくつと笑った。彼女の黒髪がするすると伸び始める。
「ね、あなたも寂しかったのでしょう。だからあの時、わたしを……」
「黙れ」
 りんねが顔を上げた。今度は明らかに動揺していた。
 少女は笑いながら彼の胸に身体をあずけた。伸びた髪がその手足に絡み付く。
「りんね様……わたしはあの時のことが忘れられないのです。忘がたくてつらいのです。あなたの温かさも冷たさも、全て」
「……っ」
「あなたは本当に不思議な方ですね。あんなに温かい身体をしているのに、心は氷のように冷たい。あの時だって……わたしを愛してくださった後、あなたはすぐに居なくなってしまった。りんね様、あなたの御陰でわたしは、前よりももっと寂しくなってしまいました」
 六文は、桜を連れ出さなかったことを激しく後悔していた。主人のこのような過去を、彼女にだけは決して聞かせるべきではなかったのに。
 桜はもうりんねを見てはいなかった。雨に濡れた長い睫毛を伏せて、色の変わった石畳をじっと見下ろしていた。傘も差さずにいるせいで、全身は着衣のまま水に浸かったようにずぶ濡れだった。前髪から滴った水滴が、六文の額に落ちて弾ける。
「……帰りたい」
 聞こえるか聞こえないかの呟きを、六文は聞き逃さなかった。助けを求めるように、りんねを見遣る。
 その時には既に、彼は幽霊を振り切り、桜の方へ駆け寄ってきていた。
 見向きもされないことに憤慨した少女は、矛先をりんねの気を散らした桜へと向け、伸ばした髪で彼女を縛めようとした。が、触れる前に護符の強い結界によって跳ね返された。
「真宮桜」
 全身から雨水を滴らせたりんねが、切実に呼び掛ける。手を握り締められると、冷たくて、桜はゆっくりと彼の目に焦点を合わせた。
 りんねは彼女の手を引いて、早足で歩き出した。途端、彼等の周りに結界が張り巡らされ、何かが当たって弾ける音が盛んに聞こえた。背後からは少女の叫び声が追い掛けてきたが、りんねはあたかも聞こえていないかのような態度を貫いた。
 彼は懇願する口調で言った。
「真宮桜…話を聞いてほしい」
「いいよ、別に。何も言わなくて」
 彼女はけんもほろろにあしらった。
「六道くんの過去がどんなものでも、私には関係無いし」
 彼女は繋がれていた手を振り解いた。そして衝撃を受けた顔で固まるりんねに、止めを刺した。
「……私達、ただのクラスメートだから」
 それが予防線だった。彼女がそう言ってしまった以上、その先に立ち入ることはできない。りんねにはそれがもどかしくてならず、かといって今はどうすることも出来ない。
 微かに震える手で、雨よけにと、桜の頭に被衣がわりの黄泉の羽織をのせてやると、彼女はそれを返して寄越そうとした。最早自分の親切を受け取ることすら嫌なのかとりんねは傷ついたが、そうではなく、彼女は彼が雨に濡れることを懸念したようだった。言葉少なにりんねが受け取るのを拒否すると、やむなく桜はそれを打ち被き、彼の数歩先を歩きだした。
 近付いたかと思えばまた遠ざかる。それが彼と彼女の距離だった。
 そして、近付き過ぎて傷つくことのないように、彼女はいざという時にはいつもこうして予防線を引く。
 ただのクラスメートだから。それ以上でもそれ以下でもないから。私には関係ないから。
 そうやって、りんねがその予防線を越えて彼女に歩み寄ることを、頑なに拒んでくる。
 ──もしも今、後ろから彼女を羽織ごと抱き締めてしまったら。お世辞にも綺麗とは言えない過去も全て打ち明けて、そんな自分を受け止めてほしいと言ってしまったら。クラスメートという予防線を、踏み越えてしまったら。
 雨に濡れそぼって凍えている後ろ姿を見詰めながら、りんねは思った。その時はもう、一巻の終わりかもしれないと。
 孤独に憑かれた無数の人魂が、槍のように降る雨の中を漂っている。

 



To be continued


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