命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 18 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 18



 ──呼んでいる。犬夜叉が。
 かごめは薄く目を開けた。とても暗かった。目を瞑っていようがいまいが変わらないほどの、途方もなく深い闇だった。
 犬夜叉の姿を借りた男の声が、すぐ側で聞こえる。
「まだ生きているのか。魂はあらかた吸い取ったというのに」
 その声を無視して、かごめは犬夜叉の名を呟いた。確かに聞こえる。どこかで彼女を呼び求める、本物の犬夜叉の声が。
「あの御方が来るはずがない」
「……来るわ」
「あのように弱っておられるのに、結界から出てこられるはずがない」
 かごめの希望を打ち砕くように、男は残酷なほど優しい声で囁く。かごめはその声を、つとめて聞かないようにする。
「犬夜叉は、来てくれるわ。……きっと」
 身体が鉛のように重く、指一本動かすことができなかった。目を開けていることすら、億劫だった。かごめは細く息をつき、真っ直ぐに闇を見詰め、どこかにいる犬夜叉の姿を思い描いた。


 かごめの匂いに近付くにつれ、犬夜叉は様々な記憶を拾い集め、失っていた過去を取り戻していった。
 関わってきた人々、生き様を変えた運命的な出来事。まるでこの森に、犬夜叉が犬夜叉であるために必要な、記憶の全てが落とされていたかのようだった。
 手綱を掴む犬夜叉の手に、徐々に力が篭ってゆく。
 彼の中で、長い間暈したように曖昧だった自己が、徐々にその輪郭を現し始めている。
 そよ風にすら飛ばされてしまいそうなほど軽く感じられた魂が、今やしかとその重みを感じさせている。
 向かい風に歯向かって馬を走らせながら、犬夜叉は胸元を強く掴んだ。愛刀を果敢に振り回していたあの頃と変わらず、心臓はひたすらに強く鼓動を刻んでいた。今この瞬間を生き、一秒先の世界に在るために。
 ──拾って継ぎ合わせた記憶の中で、傷を負ってぼろぼろになった彼自身が、同じように心臓の鼓動に感じ入っていた。

 掛け替えのない仲間を喪い、愛する人と生き別れ、全てをなくしたあの頃の犬夜叉は、孤独と絶望の底にいた。
 暫くの間はかごめだけが希望だった。それすらもやがて潰え始めた。
 ……このまま生きていても、遥か先を歩くかごめと、果たして本当に道を交えることができるかどうか。
 そうやって、定かでない遠い未来に疑心暗鬼になり、やがて希望を抱くことすら億劫になった。
 そんな彼に、もはや生への執着はなかった。
 死ぬ時は死ぬ。
 それでいいと思った。生にしがみつく意味などない。

 旅をしていた時以来久しい強敵にまみえ、愛刀をへし折られて谷底に捨てられた時。
 ……これで全て終わる、と犬夜叉は思った。そこにはひそかな安堵さえあった。
 唯々、未来を待ち続ける苦しみから逃れたかった。かごめを思い続ける辛さから目を逸らしたかった。
 命を投げ出して臨んだ死闘は、ほぼ相討ちに終わった。敵は死に、彼は瀕死の重傷を負って、暗く冷たい洞窟へ辿り着いた。
 おかしなもので、命など惜しくないと犬夜叉が思えば思うほどに、心臓の鼓動はより強く生を刻もうとする。今を生きること、一秒先に在ることに意味があるのではなかったかと、彼に訴えかけるかのように。
 心身共に深い傷を抱えた犬夜叉は、生と死の狭間で心を揺らがせていた。
 犬の童子達に出逢ったのはその頃だった。
 救われない犬の魂を、貴方の命の肥やしにしてはどうかと言われ、最初は頑なに拒んだ。死魂によって、道理を外れた生を繋いだ桔梗の悲劇を、彼は目の当たりにしている。同じ轍を踏むわけにはいかないと思った。
「私は貴方に生きていただきたい、この先もずっと」
 しきりにそう言っていたのは、果たしてどちらの少年だったか。
 
 結局犬夜叉は、死の安楽よりも、生の辛苦を選んだ。
 魂を喰い続けることによっていずれ自分を見失い、かごめを忘れ、心無い悪鬼に成り下がったとしても、構わないと思った。
 ……唯々、どのような形でもいいから、かごめにもう一度逢いたかった。
 諦めようと思えば思うほどに、かごめの全てが名残惜しくて堪らなくなり、思いを振り切ろうとする毎に、心はより頑丈な鎖に縛られていく。
 このまま逢えずじまいで死ねば、思い焦がれるあまりに浄土へ行き損ね、夢枕で彼女を呪う亡霊にでもなりかねないと思った。
 そうなるくらいなら、這い蹲ってでも生き延びて、遥かな再会の時を待ち続ける方が余程ましだった。
 命さえあればいつかまた逢えるのだと、信念を持ち続けて。


「かごめ」
 犬夜叉は目尻に光ったものを、風で飛ばした。どのような時であっても、涙を見せるのは性分に合わない。
 馬は風の速さで木々の間を駆け抜け、闇を切り裂き、やがて森を抜けた岩場のところで立ち止まった。
 彼は表情を引き締めて、鞍から降りた。長い髪を地に引き摺りながら、かごめの匂いのする洞窟に入ってゆく。
 間を置かず到達した七宝が、青い狐火を揺らめかせながら、慌ててその後を追った。
 洞窟から悲鳴が上がった。
 



To be continued 

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