無人のはずの地下教室から、何かが派手に割れる音がした。
 ほの明るい光を放つランプを片手に、ドラコは戦慄する。
 消灯時間後の校内見回りは、各寮監督生の役割である。今週はスリザリン寮にその分担が回ってきたので、彼は嫌々ながらもこうして人気のない廊下を見回っているところだった。
 ──こんな時間に誰かいるのか。だとしたら、監督生として取り締まらばければ。
 責務を思い出したドラコは深呼吸して心を落ち着かせ、微かに開いた地下教室の扉の隙間に耳を欹てる。細かくなったガラスの粉末が擦れ合うような音と、声を押し殺した啜り泣きが聞こえてきた。
 ドラコはランプを足元に置き、ローブのポケットから杖を取り出した。ひょっとすると唯の幽霊かもしれなかった。太古の昔から、魔法界のあらゆる魑魅魍魎の寄り集まるこのホグワーツという古城においては、何ら珍しいことはない。しかし万が一の時のためにも、杖を出して応戦体制をとっておくに越したことはない。
 ドラコはひとたび息をつくと、扉を一気に押し開けて中に侵入した。杖先にルーモスを灯し、突然の侵入者に驚いて逃げようとした人物の腕を掴み上げる。
「氏名、寮名、学年を言え。このことは寮監に報告させてもらう。消灯後の出歩きは禁止されているからな」
 淡々と言い放つドラコに、腕を縛められた生徒は聞こえるか聞こえないかの声で「見逃して」と懇願した。明らかに女子の声だった。
「そういうわけにはいかないな。規則なんでね」
 素気なく棄却して、ドラコは杖先のルーモスを女子生徒の顔に翳した。そして浮かび上がった顔を見て、驚愕に目を見開いた。グリフィンドール寮監督生のハーマイオニー・グレンジャーがそこにいた。彼女もまた、驚愕を湛えて彼を見詰めている。
 彼は心臓の鼓動が跳ね上がったのを感じた。こんな夜更けに何て美味しい鴨を捕まえたのだろう。見回りをするのも案外悪くない。一文字に引き結ばれていた口角が、緩やかに持ち上がる。
「これは一体どうしたことかな、グレンジャー。仮にも監督生の君が、こそこそと陰に隠れて規則を破っているとは」
 ドラコは勿体ぶった口振りで言った。暗がりの中、ハーマイオニーは捕まった相手の悪さに絶望的な目をしている。目尻には涙の名残が見て取れた。
「……今日のところは見逃してちょうだい、マルフォイ」
「それで君は、僕が本当にそうしてやると思うのかい?」
 ドラコの猫なで声に、彼女は肩を落として俯く。肩口から波打つ髪の一すじがこぼれ落ち、あるかないかのか細いため息が彼の耳を過ぎる。
「そうよね。……ごめんなさい。今の状況では、誰がどう見てもあなたが正しいわ」
 ──マクゴナガル教授のところへ行きましょう。諦めきった声で彼女はそうつぶやいた。途端、彼は心の奥底に、どうしようもなく渇えを覚えた。
 それは、城のどこかで彼女の後ろ姿を見る度に、教室で顔を合わせる度に、彼女の中に流れる下賎な血を罵る度に、憎しみと裏返しになって沸き上がる強い感情だった。あるいは憎しみというのは錯覚で、本当はその感情こそが実かもしれなかった。
 けれどそんなことには気付きたくなくて、どうしても知らないふりをしていたくて。気付けばいつもその横顔を目で追いながら、口では罵倒の言葉を投げ付けることしかできずにいた。
 憎しみたいわけではないのに。本当は傷付けたくなどないのに。
 二の腕を縛める手に力が篭もり、ハーマイオニーは警戒に身を竦めた。ドラコは静かに尋ねた。
「何をしていたか聞かれても、きっと君は本当のことを言うつもりはないんだろうな」
「……」
「僕にも、マクゴナガル教授にも」
 彼女は唇を噛みながら、小さく頷いた。
「だろうな。賢い君のことだ。余程の事情でもない限り、こうやって考えなしに規則を破ったりしないだろう」
 ハーマイオニーは驚いて顔を上げた。ドラコの手から杖が落ちた。
 落とした杖を拾う素振りも見せなかった。それどころか彼は、彼女の顎を指ですくい上げた。キスを交わす寸前と錯覚するほどの近さに顔を寄せる。
 彼女は咄嗟に目を瞑っていた。が、口もとに触れるかと思われた温度は耳もとへと逸れた。
「……さっきはどうして泣いていたんだい?」
 ドラコが囁いた。彼女は動揺する。
「な、泣いてなんかいないわ」
「嘘を付け」
「嘘なんかじゃ」
「泣いていたじゃないか。ほら」
 ドラコは指で彼女の眦に触れた。そしてその指を口元に運び、舌先で舐めた。
 ハーマイオニーは雷撃に見舞われたような顔をしていた。
「マルフォイ、あなた」
「……」
「あなた…一体、何を考えているの」
 ドラコはその言葉を頭の中で反芻させた。そして思った。多分自分は何も考えてなどいなかった。だからこそ距離を詰めることができたのだろう。
 言葉が何も見つからず、かといってただ見詰め合っているのも苦しく、彼は足元を照らすルーモスを見下ろした。そして突然しゃがみこみ、ハーマイオニーの膝と目線を合わせて呟いた。
「血が出てる」
 彼女は我に返ったように、屈んで自分の膝を見た。膝小僧の裂傷から血が流れ出ていた。
「ああ…そうなの。さっきフラスコを割ってしまって、欠片の上に膝をついたから」
「馬鹿じゃないか。どうして先に言わないんだ」
 思わぬ叱責の言葉に彼女は目を丸めた。そして何が何だかわからぬうちに、姫君よろしく抱き上げられていた。
「何するのよ、マルフォイ!」
「医務室に連れていってやる、大人しくしろ」
「自分で行けるわよ!」
「しっ、騒ぐとフィルチが来るぞ。奴に見つかると厄介だ」
 ハーマイオニーは渋々閉口し、ドラコの首元に腕を回した。
 そこはかとなく、麝香に似た香水の香りがした。
 

 マダム・ポンフリーは不在だった。患者がいないので、夜勤をする必要も無かったのだろう。今夜はもう自室に帰ってしまったらしい。
 ベッドに腰掛けたハーマイオニーは、丁寧に包帯の巻かれた膝を見下ろしていた。ドラコはそのすぐそばで、消毒に使ったガーゼを洗っている。
 窓から差し込む月光が、静かな医務室を青色に染めている。二人とも沈黙を守り続けたまま、一言も言葉を発さない。
 ドラコは盆の水中でガーゼを擦り合わせた。
 布に染み付いた血が紫煙のように漂い、やがてまっさらな水にとけていく。
 忌み嫌っていたはずの血。
 彼はそれをぼんやりと見下ろしている。
「……ありがとう。手当てをしてくれて」
 ハーマイオニーがぽつりと呟いた。
 ああ、とドラコはうわの空で返した。
「もう歩けるから大丈夫よ」
「……そうか」
「だから…あまり遅くならないうちに、マクゴナガル教授の所へ行きましょう」
 沈黙が居心地悪そうに、彼女はいった。
 ドラコは盆の水に手を浸したまま振り返った。
「いや、教授の所へ行く必要はないさ」
「え?」
「気が変わったんだ。今夜のことは誰にも他言しないから、安心しろ」 
「……どういう風の吹き回し?あなたが私を見逃してくれるなんて」
 心底驚いた様子のハーマイオニーを見て、ドラコは隣のベッドに腰掛け、クスっと笑う。
「君に恩を売っておくのもいいかと思ってね」
「嫌な言い方。見直して損しちゃったわ」
 唇を尖らせる彼女に、ドラコはまた笑う。石鹸の香りがする真っ白なシーツを撫でながら、俯いた彼はあるかないかの声で彼女の名を呼んだ。
「何よ?」
「……グレンジャー」
「だから、何?」
 繰り返し聞く彼女に、彼は肩を竦めてみせる。
「ただ呼んでみただけだ」
「何それ。あなたらしくないわね」
 ハーマイオニーは思わず笑いをこぼす。が、不意に「ハーマイオニー」と呼ばれて、笑顔を凍らせた。
「え?」
「……」
「マルフォイ……今、私の名前」
 ドラコは彼女を見詰めたまま、立ち上がった。入学してから今まで、二人の間につねにあった軋轢が信じられないほどに、優しい眼差しだった。
 彼は彼女の肩に手を置いた。そのままベッドに彼女を倒し、その上に覆い被さった。呆然としているハーマイオニーは、状況が未だにうまく把握出来ていない。
「え、ちょっと…何?何なの?」
「ハーマイオニー」
 ドラコがはっきりと名を呼んだ。彼女の前髪をかき上げて、露わになった額にキスを落とす。一瞬放心した彼女は、すぐに顔から火を噴かんばかりになって、手で額を押さえた。
「な、何やってるのよ!?」
「何って、キスじゃないか」
「そうじゃなくて!」
 ドラコは彼女のネクタイを解いて、にっこりと笑った。ハーマイオニーはここで漸く貞操の危機を覚え、慌てて身を起こそうとした。が、覆い被さる身体を退けることができない。
「あなた一体、何を考えてるのよ」
「何って、この状況じゃ考えられることはひとつだろう」
「何ばかなこと言ってるの」
「駄目なのか?」
「当たり前じゃない」
 ドラコは溜息をついた。理由がなければいけないのなら仕方がない。困惑と焦燥と羞恥が綯交ぜになって、涙目になりながら途方に暮れる彼女に、彼はそっと囁きかける。
「今日のこと。マクゴナガルには黙っていてほしいんだろう?」
 ハーマイオニーは肩を震わせた。火照った頬を手で覆い隠す。
「……それは脅しているつもりなの?」
「優等生は呑み込みが早くて助かるよ」
 ローブを脱ぎ捨てたドラコが笑った。彼女は脱力したように溜息をついた。
「マルフォイ。やっぱり今日のあなた、どうかしてるわ」
「ふうん。ならいつもの僕も、どうかしてるってことになるな」
 ドラコは後ろ手にカーテンを掴んで、引いた。
「だって僕はいつも、君とこうしたくてたまらなかったんだから」
 暫くの間、そのカーテンが開けられることはなかった。


 ネクタイを締めたドラコは長い溜息をついた。疲労感の中に、隠しようもない達成感がある。
 長く時間をかけて彼女を愛した。
 彼女は泣いてはいなかった。ただじっと耐え忍んでいた。そんな彼女の姿態が、眩暈がしそうなほどに綺麗だった。
 そして彼女の導火線にも、自分の火を飛び火させてしまったことを、彼は漠然と感じ取っていた。火照った体を持て余しながら共に余韻に浸った時の、あの潤んだ瞳から。
 シーツには一点の血が残されている。彼が摘み取った花の証しだった。
 見下していたはずの、彼女の流したその血が、今の彼は愛しくてならない。
 もし仮に彼女が受胎したとしたら、彼は涙を零して喜ぶだろう。例えどんなに血が穢れていようと、彼女に宿ったその子を彼は誰よりも愛おしむだろう。
 ブレーキの利かない自転車で坂道を下るように、彼は初めての恋に落ちていく。もう坂の上で全てを見下していた頃の自分には戻れない。戻りたいとも思わない。
 ドラコは、艷めいた微笑を浮かべた。
 ──ただの火遊びと思うなら思え。
 マルフォイ家の名、純血の名誉、闇に縛られた生命、そのすべてを懸けて、そうでないことをこれから証明してみせる。
 
 


end.


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