猫 あたたかな昼下がりの日差しが長廊下に降り掛かっている。その真ん中で憤然と睨み合う男女二人を、通り過ぎていく生徒達が傍迷惑そうに振り返っていく。無論この二人はそのような迷惑など省みず、先程から既に小一時間ほどもこうして無言の応戦を繰り広げていた。 毛並みの美しい、瑠璃色の瞳をした黒猫を抱きかかえたドラコが、ハーマイオニーの腕の中で喉を鳴らすクルックシャンクスをびしりと指差して声を高めた。 「今後二度と、その薄汚い猫を僕のアーシャに近付けるな!」 「なんですって?とんだ濡れ衣を着せられたものね!」 ハーマイオニーは愛猫をきつく抱いて眉を吊り上げた。 「大体ね、マルフォイ、あなた勘違いも甚だしいわ。クルックシャンクスが近づいていくんじゃなくって、おたくの猫がクルックシャンクスに付き纏っているんですからね!」 「なんだって?」 ドラコはこめかみに青筋を立てた。 「マルフォイ家の猫が君なんかの猫を相手にするものか!」 「じゃあご自分の目で確かめてみたらどう!?」 ハーマイオニーはつんと横を向いた。きつく抱き締められて苦しそうな鳴き声を上げていたクルックシャンクスが、遂に身を捩ってその縛めから逃れた。 「あっ、クルックシャンクス!」 「アーシャ!?」 クルックシャンクスが床にすとんと着地すると同時に、ドラコの黒猫もまた彼の腕から逃れ、地に降り立った。そして二匹の猫は、まるで示し合わせたかのように、揃って光差す長廊下の向こう側へと駆け出していく。 「アーシャ!どこへ行くんだ!?」 「クルックシャンクス、戻っていらっしゃい!」 飼い主たちの呼び声にも遂に振り返ることなく、猫達は連れ立って曲がり角へと消えていった。呆気にとられたドラコとハーマイオニーは、しばらくそのまま呆然と立ち尽くしていたが、ふと相手が自分と同じ顔をしていることに気付く。 相手の間抜け面がおかしくて、二人は同時に小さく吹き出していた。が、相手が自分を笑ったことに、同時に癇癪を起こした。 「なにが可笑しいのよ?」 「そっちだって今、僕を笑ったじゃないか!」 二人はまたも視線に火花を散らせて睨み合った。そこで遂に、散々待たされて痺れを切らしたハリーとロンが、二人の間に割って入った。 「ハーマイオニー、そろそろランチに行こうよ。ね?」 「猫のことは猫にしか分からないじゃないか。飼い主同士で気を揉んでいても仕方ないよ」 必死で彼女を宥める二人組を、ドラコは一抹の興味もなさそうに鼻であしらう。 「まあいいさ。後でこちらがしっかりと躾をするんでね、あんな薄汚い猫なんかに二度と近寄るなって」 「失礼ね!クルックシャンクスは薄汚くなんかないわ!」 熱くなるハーマイオニーを尻目に、ドラコはふっと笑って踵を返した。 躍起になった彼女は、何がなんでも愛猫をあの忌々しい奴の猫から遠ざけなければと決意した。 が、あの二匹の猫を遠ざけるのは思いの外難しそうだということを、すぐに思い知らされることになる。 「はあ…あなた達ったら、また一緒にいたのね」 城内を散々探し回った挙げ句、漸くハグリッドの小屋の側で暢気に身を寄せ合って眠る猫二匹を見付け、ハーマイオニーは疲労から肩をがっくりと落とした。 あれから何度寮に留まるようしつけても、彼女の猫はいつの間にか在るべき場所から脱走し、決まって城のどこかでこの高貴な黒猫と寄り添っているのだった。どんなに躍起になって引き離そうとしても無駄だった。さすがの彼女ももうすっかりお手上げ状態である。 そしてそれは彼もまた同じようだった。ハーマイオニーの背後で、走り疲れたドラコが溜息をついている。 「賢いアーシャが意地でも言うことを聞かないんだ。まったく、困ったよ」 「クルックシャンクスも同じよ。いつもはあんなに賢い子なのに、どうして言うことを聞いてくれないのかしら」 君の猫が賢いって?とでも言いたげなドラコの視線に、振り返ったハーマイオニーは眉間に皺を寄せる。困憊している彼は喧嘩ごときに労力を使いたくなかったので、ごく自然に「ごめん」と短い謝罪の言葉を口にしていた。 虚を衝かれた彼女の口がぽかんと開いた。 「……マルフォイ、あなたでもちゃんと人に謝ることってあるのね」 「は?」 「あなたみたいな人は、絶対に人に謝るタイプじゃないと思ってたわ」 ドラコは憤慨した。 「そうかい。なら君は、素直に謝ってくる人にそうやって文句をつけるタイプの人間なんだな」 驚いた彼女はすぐに自分の非を認め、詫びた。ドラコは寄り添って眠る二匹の猫を見下ろしながら、別にいいさ、とつぶやいた。 ハーマイオニーは彼の横顔を見た。目が合う前に何故か目を逸らしていた。 そうして日が沈むまでの間、二人は並んで二匹の猫を見下ろしていた。時々隣の様子を窺いながら。 誰よりも遠く思えていたはずの相手が、案外近くにいるものなんだなと、初めてそう思えた日だった。 以来、この二匹の猫のいる場所が、同時に二人の定点となった。 相変わらず授業中は険悪な空気になることばかりで、普段の生活では目すら殆ど合わせることもないのに。ひっそりと逢引をする猫達を見つけると、それがあたかも当たり前であるかのように、二人は互いの隣に腰を下ろし、揃って猫の恋人達を見詰めているのだった。 「……アーシャは君の猫を本当に好いているんだな」 ドラコがぽつりと呟いた。黒猫はじゃれるように、クルックシャンクスの顔を小さな舌で舐めている。 「あら。クルックシャンクスの方も、あなたの猫のことが大好きみたいよ」 美人さんだものね、あなたの猫。とハーマイオニーが笑いながら、肘で何気なく彼の脇腹を小突いた。ドラコはそれが擽ったそうに身を捩った。 「君の猫だって、不細工だけど愛嬌があるじゃないか」 「不細工は余計だけど、でも愛嬌があるのは確かよ。ロンはどうしても分かってくれないけど」 くすくすと笑いながら、ハーマイオニーは手を伸ばして、ドラコの黒猫の小さな頭を撫でた。毛の手触りがとてもなめらかだった。 「あなたはとても大事にされているのね、アーシャ」 彼女の言葉に、横顔を見詰めるドラコはふっと眼差しを緩める。 「猫は賢いから好きなんだ」 「そうね」 「君も」 「ええ。私もそう思うわ」 「そうじゃなくて、」 え?と振り向いたハーマイオニーの頬に、ドラコの掌が触れた。彼女は目を見開いた。 「マルフォイ?」 彼は彼女をじっと見詰めていた。熱いようで冷たいような、温度の計り知れない眼差しだった。決して澄み切った空の色にはなれない青灰の瞳。二匹と二人だけの教室を、窓ガラスから差し込んだ夕陽が赤く照らしている。 「……君も賢い、と言いたかったんだ」 ハーマイオニーは言葉を失った。心臓が早鐘を打っていた。 「何を言って…」 「君も猫のように賢いから、いや…誰よりも賢い魔女だから」 彼女は息を呑んだ。 「だから僕は、君のことが──」 それきりドラコは口を閉ざしてしまった。彼女がどんなに待っても、頑として言葉を発しようとしなかった。途方に暮れた彼女は唯々彼の瞳を見詰め続けるだけだった。諦めきったその瞳が全てを物語っていた。 切なかった。続きを言ってほしかった。けれど彼がそう出来ないことを分かっているからこそ、益々胸が締め付けられた。 日が沈んで教室が暗くなり始めると、ドラコはハーマイオニーの頬から手を離し、ごく自然に距離を置いた。何事もなかったかのように黒猫を抱き上げ、彼女に背を向ける。 「……どうかしてた。さっき言ったことは、忘れてくれ」 声が震えていた。クルックシャンクスを抱き寄せる彼女の手もまた、小さく震えていた。 扉が閉まる音が静寂の中に沈んだ後も、ハーマイオニーは何度も同じ音を聞いていた。 あれから二匹の猫が逢引をすることはなくなった。 まるで示し合わせたかのようにぱったりと。 愛猫を腕に抱きかかえ、窓辺に寄り掛かり、今日も二人は近くて遠い相手を思っている。 end. back |