花嫁 - 9 - | ナノ

花嫁 - 9 -



 薄暗い森は深閑としている。生きとし生けるものすべてが息をひそめて、シシ神とその花嫁の邂逅を見守っているかのようだった。
「どうやら我が花嫁は、驚いて言葉も出ないようだ」
 シシ神の声は、不思議なものだった。その声が静謐を揺らせば、痛手を負ったままの森が、まるで生き物の心臓が鼓動を刻むかのように律動した。今、森のどこかで新しい生命が芽生えたな、とサンは直感した。畏怖をこめて再び視線を落とすと、シシ神はやはり優美に微笑みながら、彼女を見上げている。
「あなたが──シシ神さま」
 神妙な顔でそうつぶやいたサンに、シシ神はゆっくりと頷いた。
「いずれ穴蔵を訪ねようと思っていた。──よもや、そちらから私を捜しにやって来るとは」
 このうえなく嬉しそうに言う。
 気まずくなって、サンは視線を逸らした。
 ひたむきな眼差しに当惑する。シシ神が自分をこんなにも慈しみ深く迎え入れようとは、思いもよらなかった。
「して、今宵は何用で訪ねてきたのだね──?教えておくれ、我が花嫁よ」
 肩に手を添え、優しく問いかけてくるシシ神に、サンは言葉を失う。
 誤解していた。シシ神が山犬の娘を嫁に迎えようなど、本意であるはずがないと思っていた。
 だが、この慈愛に満ちた温かな眼差しはどうだろう。
 だまっているサンを見て、なにか思うところがあったのか、シシ神はそれ以上問うことをしなかった。
 長い髪が白波のようにゆらめく。シシ神の足が地を離れ、サンと目線の高さを同じくした。白い手がサンの頬をそっと包み込む。唇を固く引き結んだまま、サンはシシ神と視線を交える。彼女の頬に刻まれた朱色の入墨を、シシ神の親指がゆっくりとなぞった。
「よく似合っている。かつて娘達は、このような入墨をしていたものだ」
 人ともののけが、共に生きていた頃のことだよ──と。
 溜息とともにシシ神はつぶやいた。いにしえの時に思いを馳せるその顔は、どこか悲しげであった。
「──人ともののけは、やはり、相容れぬもの同士なのであろう」
 シシ神の言葉が、棘となってサンの胸に突き刺さった。アシタカの後ろ姿が彼女の脳裏に浮かぶ。
 人ともののけ。
 サンとあの若者も、やはり相容れぬもの同士なのだろうか。
「でも私は、もののけでも、人でもない──」
 その静かな声に、シシ神は目を細めた。
「そなたは、サンだ。もののけでなくとも、人でなくとも」
 シシ神が両手を彼女の方へ伸ばすと、サンは不思議そうな顔をした。シシ神は優しく微笑んだ。そのまま、力を篭めないようにそっと、自らの花嫁を腕にいだく。
 サンは大人しくシシ神に身をあずけた。森の生命のぬくもりを感じながら、目を閉じた。
 シシ神は森の生き物を育む存在なのだということを思い知る。
 親が我が子を愛おしむような抱擁が、ただ心地よかった。



【続】

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