街 「それでね、お母さんったらね……」 千尋は肩を落としながら愚痴を続けた。苔むした石像に膝を抱えて座る彼女は、十七という年齢にそぐわぬ童顔のせいもあって、随分と幼く見える。 「もう家に帰りたくなくなっちゃった。きっとお母さんは、わたしのことが嫌いなんだわ」 モルタル製の赤壁に寄り掛かり、時折相槌を打つにとどめて静かに千尋の話に耳を傾けていたハクは、そこで漸く言葉を発した。 「……あまりご両親とうまくいっていないんだね」 千尋は長いため息をついた。立てた膝に顔を埋める。 「この街に来てからお母さん、ずっと機嫌が悪いの。田舎は不便で嫌だから都会に帰りたいんだって。もう何年も経つのにね」 大人げないよね、と千尋は悲しそうにつぶやいた。ハクは柳のような眉を心持ち下げる。 「でも、それは千尋のせいではないのに」 「──ううん。ここから引っ越せないのは、大体はわたしのせいだから」 千尋は膝の間から、悄気げた仔犬のような顔をのぞかせた。 「お父さんの仕事のせいもあるけど、それは何とでもなるはずだった。嫌だったらお父さんが会社に頼んで、元の場所に戻ることもできたの。でも、お父さんはそうしなかった。わたしがここから離れたくないって言ったから」 「どうして?」 ハクが静かに尋ねた。こちらの生活に合わせて、他の男子学生と同じように短くした髪をさり気無く掻き上げる、その仕草がよく様になっていた。千尋の頬にうっすらと赤みが差す。 「──ここから引っ越しちゃったら、ハクにもう会えないかもしれないと思ったから」 風で擦れ合った落ち葉が二人の足元で音を立てている。 一瞬驚いた顔をしたハクは、すぐに嬉しいような申し訳ないような複雑な表情になった。壁から背を離して、千尋に歩み寄っていく。 「千尋がどこへ行こうと、私が必ず見つけ出していたのに」 「……でもあの時は、そんなこと、まだ分からなかったもん」 嬉しい言葉に心躍らせながらも、どうも出鼻をくじかれたようで悔しく、千尋は団栗を頬張る栗鼠よろしく頬を膨らませた。文字通りのふくれっ面でそっぽを向く。 長身の影が千尋にすっと降り掛かった。ハクは顔を遮る彼女の長い髪を耳に掛けてやり、暫くその顔を見詰めたあと、吸い寄せられるように桜色の唇にキスをした。 「ハ、ハク……!?」 千尋は口元を慌てて押さえる。その驚愕に見開かれた目を覗き込んで、ハクは言葉を噛み締めるようにいった。 「千尋、やはり私が、そなたをこの街に縛り付けてしまったんだね」 トンネルが風と落ち葉を吸い込んでいく。 再会を果たしたハクと千尋は、川という依代のないハクをこの世界にとどめるために、ある契約をした。 それは千尋という存在自体を、ハクの拠り所にする契約だった。千尋が側にいる限り、ハクはこの世界で実像を結び続けていられることを約束された。 が、本来ハクと千尋の力だけでは、契約を結ぶには不十分だった。 それは、八百万の神々が多く集まる「神隠しの森」がこの街に在るからこそ、成し得たことだったのだ。 だからハクは、千尋との契約の守りの他にも、神力の恩恵を受けなければ存在し続けることができない。 この街から遠ざかることはできない。 「責任は取るよ。この街で、これからたくさん時間をかけて」 ハクが千尋の頬のラインをそっとなぞりながら、温柔な声色で囁いた。 千尋は顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせるも、返すべき言葉が見つからない。 「まずはご両親にお詫びをしなければ。千尋を待たせてしまったことを」 それから、とそこで言葉を区切り、ハクは千尋の両手をとって握り締めた。互いのぬくもりが末端からじわじわと広がっていく。 「千尋を生んでいただいて、ありがとうございますと、お伝えしたい」 千尋はぽろっと零れてしまいそうなほどに目を瞠った。ハクは微笑みを湛えながら、千尋の手を解放した。 視線に促されるままに、千尋はその手をそっと開いた。 幻の蝶が数匹、手の内から羽ばたいた。 千尋は、恥じらう乙女の表情を見せた。 end. back |