吉祥果




 漆塗りの雅びな猪口に、りんは酌をする。うっかり手が震え、芳香の薫り立つ妖酒が殺生丸の袖に零れ落ちた。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて平伏そうとしたりんの顎を長い指で掬い上げて、殺生丸はゆっくりと口角を上げた。鉄面皮のこの男には稀有なことに、誰の目から見ても明らかな笑みが、その白皙の面に現れる。
「──りん。何を動揺している」
 まるで、小兎を追い詰めて愉しむかのような声色だった。りんは肝が冷えた。
「動揺してなんか…」
 眼差しが焼き付くようで、りんは怖れを抱きながら目を逸らす。
 視界の端に過ぎるものを極力見ないようにしながら。
「りん」
 殺生丸は彼女の耳元に唇を寄せた。
「───あの夜、お前は『見て』いたな」
 りんは息を呑み込んだ。二度と浮上してこないかもしれないと錯覚してしまうほど奥まで。
「な、何も、見てません」
 小兎のように震えるりんを、袖のうちにそっと閉じ込めて、殺生丸はまた笑う。
「りん、お前は見ていた」
「わたしは何も……」
「何故隠す?」
 りんは口を貝のように固く閉ざす。それを不満に思ったのか、薄い唇から覗いた牙が、小さな耳を甘噛みした。
 大袈裟に身震いしたりんを、更に力を込めて抱き締め、殺生丸はまた笑う。
「……食べないで」
 円らな瞳に涙を浮かべ、りんが蜘蛛の糸ほどにか細い声で懇願した。
「わたしを食べないで。殺生丸さま」
 殺生丸は手を伸ばして、盆に溢れんばかりに乗せられた石榴をひとつ取った。そしてそれを、りんの目の前に差し出した。
 身体を硬直させたりんを、雁字搦めにして、殺生丸はまた笑う。
「りん、私はお前が欲しい」
 殺生丸の手の内で石榴がぐしゃりと潰れた。透き通った赤い汁が彼の腕を伝った。
「いや……」
 りんは首を振って、殺生丸の腕の内から逃れようとした。足掻けば足掻くほどに縛めは強まった。
「案ずるな。お前を喰らいはしない──」
「でも、あなたは」
 涙を次々と零しながら、りんは震える声で嘆いた。
「殺生丸さま、あなたは、あの人を食べたわ……!」
 か細く腕を伝う血のような石榴の汁を舐めとっていた殺生丸は、瞳をすっと細めた。
「……それがどうした」
 冷ややかな声で言い捨てる。既に笑ってはいなかった。
 縛める片腕の力加減が緩んだ隙を逃さず、りんは戦慄の面持ちで後ずさった。その時、足が畳に置かれた盆に当たり、積み重ねられていた赤い石榴が崩れて、ころころと四方八方に転がった。
 何かに憑かれたように、りんは悲鳴を上げた。耳を塞ぎ、目を閉じ、声を限りに悲鳴を上げた。長い長いその悲鳴がぷつりと途切れると、彼女は突然畳に突っ伏して嗚咽を零し始めた。
 りんは誰かの名を途切れ途切れに喉元から絞り出していた。それが自分に向けての呪詛であったならと殺生丸は思った。
 愛しい娘の心許無く震える背に手を添え、彼は告げた。
「りん、お前の命は私の物。──他の何者にも渡さぬ」
 そして二人は永遠に何かを失った。


 


end.


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