Name of Life




 魔女は煙草の紫煙をくゆらせて哄笑した。片手で宝石箱から取り出した翡翠を弄びながら、机の前に佇む少年へ語り掛ける。
「お前、八つ裂きにされると分かっていながらよく戻ってきたねえ」
「……それが決まり事でしたから」
 その能面のような顔をハクはそっと伏せる。
「あの子と向こうへ帰りたいとは思わなかったのかい?」
 透き通った翡翠を掌で転がしながら湯婆婆が訊く。
 ハクは静かに瞑目する。
「どの道私はあの先へは行けませんでした。向こうの世界に、私の帰る場所はもうない」
 そうかい、と湯婆婆は煙を撒き散らしながら言った。
 ハクは童髪を僅かに揺らして首肯し、魔女へ尋ねた。
「……千尋はこの先、ここであったことを全て忘れて生きていくでしょうか」
「だろうね。それが決まり事だから」
 決まり事。先程からそればかりだ。自分の居る此方でも千尋の居る彼方でも、皆が動かすことのできない決まり事に縛り付けられている。その決まり事の前において、個の意志などは無力に等しい。
 白皙の面に遣る瀬無い微笑みが浮かぶ。
「それを聞いて安心しました。全てを忘れるのなら、千尋がこの先不要な望みを抱くこともないでしょう」
「不要な望み?」
 疑問調の魔女の科白に、ハクは微笑んだまま首を振る。
「何のことはない、子供同士で契約の真似事をしただけのことです」
「逢いに行くとでも言ったのかい?」
 的を射た発言にハクは一瞬息を詰まらせる。
「……また逢おうと、言いました」
 湯婆婆が呆れ顔になった。
「馬鹿な子だ。子供同士だろうがなんだろうが、口に出して言ったのならそれはもう契約だよ」
「ですが」
 ハクは珍しくむきになった。
「千尋はもう私を覚えていない。あのトンネルを出て千尋が私を忘れた時点で、その契約も反故となったのでは」
「甘いね」
 湯婆婆が長い睫毛に縁どられた瞳を細める。
「決まり事は万能じゃない。そこに契約の力が介入すれば、そんなものは幾らでも捻じ曲げられるんだ」
 魔女の掌から翡翠が零れ落ち、机の上を転げる。いびつな曲線を描いて、宝石箱の角に当たり、それは漸く動きを止めた。
「分かるだろう。それは決まり事と違って、契約が意志を持つからだよ」
 ハクは息を竦め、翡翠色の瞳を瞠った。
「逢いたいんだろう。もう一度、あの子に」
「はい。……出来ることならもう一度」
 震える声でハクが言った。一筋の涙が白磁の頬を流れた。
「あの子はお前を忘れちゃないよ。思い出せないだけで」
 魔女は淡々と言った。ほんの少し前に、同じ台詞を同じ顔をした魔女がトンネルの向こうに帰っていった少女へ告げたが、無論彼女には知る由もない。
「──さて。ハク、帳場に戻りな。お前にはまだ仕事が残ってるんだ」
 湯婆婆が突拍子もなく話題転換した。
 ハクは虚を衝かれた顔をした。
「ですが…」
「お前を八つ裂きにするのはまだ先だ。まだあの子のせいで店が滅茶苦茶なままなんだからね。お前が後処理をしないで誰がやるんだい」
「……」
「何ぼーっとしてるんだい!?早く下へ行って仕事しな!」
 湯婆婆が突然金切り声を上げて、手でハクを追い払う動作をした。
 ハクは泣き笑いながら一礼し、踵を返した。



 青々と茂った木々の間を通り抜けて差し込む日光が眩しい。千尋は手庇を作った。
「もうすっかり夏ね」
 古びたトンネルの前にある苔むした石像に座ると、千尋は薄紗のあしらわれたスカートから覗く細い脚をぶらぶらさせた。
 青空が見える。澄み渡った空に一筋の真っ直ぐな飛行機雲が走っている。今日から一週間の海外出張に旅立つ父親が乗っている飛行機かもしれなかった。千尋は笑顔で空に手を振った。手にした水色のシャーベットが早くもとけ出して、冷たい液体が肘まで伝っている。
 木々の間からは絶え間なく蝉の鳴き声がする。火照った頬を冷ます涼風はなかなか吹いてくれる兆しがない。落としたシャーベットの棒に蟻が集まっている。一匹の蜻蛉が薄い翅を動かしてふらふらと飛んでいる。
 千尋は宙に人指し指を立てた。休息の場を見つけた蜻蛉が飛んできて、止まった。
 背後から声がした。
「……千尋」
 蜻蛉が薄く透き通る翅を動かして飛び去っていく。
 千尋は振り返らなかった。
 このトンネルから出て来て彼女の名を呼ぶ人物は、ただ一人しかいない。
「ずっと、ここで待っていてくれたんだね」
 濃緑の長い髪が彼女の肩に降り掛かり、後ろから伸びてきた白い袖が身体を覆う。
 千尋は指の間から嗚咽を零す。
「もう、逢えないかと思ってた……」
「でもまた逢えた」
 本当に嬉しそうに、彼はいった。
「千尋があの日の契約を覚えていてくれたから、私は戻って来れたんだ」
 さあ、顔を見せておくれ、と小川のせせらぎにも似た声が千尋に耳打ちした。涙を溜めて振り返った千尋の頬を、ひやりとした手が包み込んだ。
 半透明の姿になったハクが微笑んでいた。
「綺麗になったね、千尋。とても生き生きとした──意志のある顔をしている」
「意志?」
 千尋が涙を零しながら訊いた。ハクは透ける親指でその涙を拭った。
「千尋は知っていた?契約は意志を持つんだよ。決まり事を捻じ曲げる程に強い意志をね」
「知らなかった」
 千尋が泣き笑いながら手を伸ばした。ハクはその手を強く握り締めた。指が絡み合い、視線が交わり、どちらともなく顔を寄せた。合わせた唇を離すと、ハクは軽い身体を抱き上げて、彼女の耳元に唇を寄せた。
 ──千尋、私はまたここへ帰ってきてもいいだろうか。
 答える代わりに、千尋はハクの首に腕を回す。
 ハクは静かに泣いていた。千尋もまた泣いていた。嬉しい時にも悲しい時にも涙は流れる。古い感情を洗い流し、心に新たな意志を見つけるために。
 ……思いを遂げたハクは、千尋の腕の中で水に還った。
 濡れそぼった身体を抱き締めて、寂しくなって、千尋は声を上げずに泣いた。けれど彼女は知っていた。服を濡らす水がやがて蒸発して空気に還ってしまっても、ハクはまた千尋の元へ戻ってくるということを。
 あるいはもう、既に戻ってきているのかもしれない。
 千尋は泣くのをやめて、腹に手を当てる。
 目を閉じて耳を澄ませてみる。どこかでさやかに流れる水の音が聞こえる。決して目には見えない、彼女の中でのみ流れる川。
 彼が帰りつく場所は、きっとそこにある。
 二つの意志が交差する、二人だけが知る場所。
「──コハク?」
 震える唇で彼女が名前を紡ぎ出す。
 その声に呼び起こされるように、たった一つのいのちが目を覚ます。




end.

( Based on "いのちの名前" )

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