花嫁 - 8 - 母喰鳥の鳴き声が森に夜の訪れを告げる。 サンは辺りに夜目をきかせながら、森の中を駆けていた。太陽をうしなった夜の世界は、底冷えするような深い闇に包まれている。 「どこにいるんだろう、シシ神様は」 昼間からこうしてシシ神をさがして森を駆け回っているのだが、一向にその存在を見つけ出すことができない。 日没後の急激な気温の低下とともに、サンの気力も体力もともなって下がりつつあった。 そろそろ兄弟たちの待つ穴蔵に帰って休みたい、と思う。 本音を言うと、そのシシ神と対峙することに、サンは消極的だった。 アシタカとの仲がこじれてしまった元凶。かと言って、森のシシ神である以上、ぞんざいな態度をとるわけにもいかない。 この森のなかに生きるものにとって、生死を司るシシ神は絶対神だ。獣神の所望するものは、惜しみなく差し出さなければならない。──それがたとえ自らの命であっても。 森に生きるものとして、サンはその暗黙の掟を重々に心得ている。以前の自分だったら、何の躊躇いもなくその身をシシ神へ捧げていただろう。それが森の意志だというのならばそれに従うまでだ、と。 シシ神の花嫁になる。しがない森の住人にとって、それは誉れ高きことに違いない。シシ神の寵愛を受ければ、不死すら得られると聞く。それはきっと、森に棲まうもののけ達のみならず、万人が喉から手が出るほど望む誉れだろう。──けれど。 「私は、不死などいらない……」 サンはぽつりとつぶやく。自然の摂理をゆがめてまでも、生に縋り付くような真似はしたくないと思った。そして、何よりも── 「アシタカ以外の男に嫁ぐなど、私は、嫌だ」 言葉にすると、サンの胸の裡でその意志ははっきりと形を結んだ。 シシ神の花嫁になれ、とサンを導く森の意思に対抗する、彼女の本心。 二匹のコダマが、大岩に腰かけるサンの周りを駆け回っている。子どものように無邪気に過ごしたアシタカとの日々を思いながら、サンはふと微笑んだ。 アシタカを失いたくない。 森は確かに大事だ。──だがアシタカのことも、比べられないほど愛おしい。 シシ神の花嫁にはならない。 絶対に。 「会いに行こう。シシ神様に」 心の整理がついた。サンは夜空にむかって、大きく背伸びした。木の梢から夜露がひとしずく、額に弾けた。手足が凍てつくかのような寒さだ。サンは肩をぶるりと震わせた。 「随分と寒くなってきたな。……くしゅっ」 くしゃみが出て、サンは鼻を小さく啜った。──その肩に、誰かの手が触れた。 「夜風は冷えるであろう?」 サンは口をぽかんと開けて、その男を見上げた。 大岩に腰かけるサンの背後に立つ、長身の男。にっこりと笑いながら彼女を見下ろしている。 「これを。身体に障らぬよう、掛けていなさい」 男は彼女の肩に、光輝く銀の衣をあずけた。 その目は、炎のように赤かった。足まで届くほど長い髪が、細やかな銀の糸のようにその背を流れている。細い金の輪の連なった耳飾りが、男がほんの少し首をかしげるだけで、しゃらしゃらと上品な音を立てる。 サンはしばしの間、その謎めいた男の神秘的な容貌に声を奪われた。 人ではない。──だが、もののけでもない。 男は袖で口元を覆い、声を立てずに笑った。 「そう見詰められては、この顔に穴が開くぞ。もののけの姫よ」 男の静かな、それでいてからかうような口調に、サンはむっとした。肩に置かれた男の手を振り払い、毅然とした態度で大岩に立ち上がる。 男はおもしろい余興を楽しむかのように、上機嫌に彼女を見上げている。 「お前は、誰だ!何故、私を知っている?」 サンの激しい剣幕にも、男は全く動じない。むしろ好ましいものを見るように、その美しい顔を綻ばせている。 「怒りを鎮めるがよい。我が花嫁よ」 「なっ!……え?」 サンはその場に凍り付いた。 ──我が花嫁。 そのようなことを口にする相手は、この森において唯一人。 「私を捜していたのであろう?ゆえに、サン、そなたの前に姿を現したのだ」 サンの肩から、星のようにきらめく衣がなめらかに滑り落ちた。 呆然とする彼女を、男は──人の姿をとったシシ神は、深い慈愛をたたえた眼差しで見上げた。 【続】 back |