ルフラン



 目が覚めるのはいつも同じ時間。
 隣の布団がこんもりと膨らんで、かすかに上下しているのを横目に、海は布団を手際よくたたむ。ピンクのカーテンをひいて、朝日のまぶしさに目を細めながら、ガラス窓を開ける。海沿い特有の、潮の香るひんやりとした風が吹く。
 眼下に広がる鬱蒼と茂った木々のむこう、広い海が抜けるように青い夏空をうつして光り輝いている。高い鳴き声を上げながらかもめが海上をとんでゆく。幾艘もの船が白波を立てながら水面をすべってゆく。かすかに船乗りたちのかけ声が聞こえる。
 どれもこれも、いつもとおなじ朝の光景だった。海は潮風を吸い込みながら、背伸びをする。渡米していた母はもう一年も前に帰国しているので、もう彼女がコクリコ荘の住民の朝食の支度をする必要はないのに、未だに染み付いた早起き癖は落とせない。せめてあと三十分は寝坊してみようと思いつつも、ここ一年それが出来たためしは一度もない。
 ふと、旗竿が目についた。ますます目が冴えた。
 ──今日も朝一番に、まずはUW旗を揚げよう。それから割烹着を着てお母さんの手伝いをしよう。学生らしくまだ寝ていなさい、お母さん一人で大丈夫だから、と言われたとしても。
 海はひとり頷いて、髪を編むために鏡台の前に立った。背後からとつぜん、いるはずのない人物の声が聞こえてきたのは、その時だった。
「……おはよう、メル」
 海は文字通り飛び上がった。
「か、風間さん──!?」
 振り向きざま、編みかけの髪が彼女の肩口でばらばらとほどけた。布団からもぞもぞと上半身を起こした俊が、まだ眠そうに目を擦りながらくすっと笑う。
「そんな、幽霊でも見たような顔をするなよ」
「だ、だって、どうしてうちに風間さんがいるんですか?」
 ──しかも私の隣に!と声には出さず、口をぱくぱくさせながら言う海に、俊は少し拗ねたような顔をする。
「なんだ、メル、覚えてないの?昨日のこと」
「昨日の……?なんのことですか?」
 海は眉をハの字に下げた。頑張っても頑張っても、昨日の夜のことがなぜか思い出せない。
「ま、あれだけ飲んでちゃ記憶が飛んでても仕方がないよな」
 俊は肩を落として残念だ、というように溜息をつく。
 あれだけ飲んで、とはどういう意味だろう。嫌な予感に海の顔が青ざめた。
「……もしかして私、お酒を飲んだんですか?」
 うん、と俊は事も無げに頷いた。
「大学が夏休みに入っただろ。それで水沼が帰ってきてたから、文藝部の集まれる奴らで集まって、夕方からここで飲み会やらせてもらったんだよ。途中からコクリコ荘の人達も混ざってくれてさ、大盛り上がりだったんだ」
 そうだっけ、と海は難しい顔をして頭をひねる。
「で、メルがグラスを片付けたりなんだりでずっと動き回ってるから、水沼がひと息つけってビールを勧めたんだよな。メルは何度も断ってたけど、あいつもしつこいからさ、結局メルの方が折れて一杯飲んだんだ。そしたらあいつ、どんどんグラスに注ぐもんだから、メルも飲むわ飲むわ。結局俺が部屋まで運んでやったんだぜ、酔いつぶれちゃったから」
 俊は可笑しそうに笑ったが、反して海は顔面蒼白だった。
「正直、メルがあんなにいけるクチだとは思わなかったな。将来有望だよ」
 妙なところで感心している付き合って一年になる恋人を、横目で恨めしげに睨み、海は顔を両手で覆って嘆く。
「風間さん、私、受験生なんですよ。もし、飲酒したなんてことが学校にばれたら……」
「相変わらず真面目だなあ、メルは。ま、そういう真っ直ぐなところも、俺は好きだけどね」
 思わぬ言葉に海は頬をぽっと染める。
「……そういうこと、簡単に言わないでよ」
「だって本当のことだし」
 俊は肩を竦めて笑い、布団から起き上がった。近づいてくる彼の着ている淡い水色のシャツに、みっともない皺が沢山ついてしまっているのを見て、海は眉間にかすかに皺を寄せる。
「待って」
 抱き締めようとする寸前で止められて、俊は不服そうに唇を少しとがらせた。
「どうして風間さんがうちに泊まったのか、まだ理由を聞かせてもらっていないわ」
「……言わなきゃだめ?」
「だめです」
 俊は髪をくしゃりとつかみながら俯いた。頬がかすかに赤らんでいた。
「……だって昨日、メルがいいって言ったから」
 消え入るような声で言うのでまったく聞こえず、もっとよく聞こえるようにと、海が耳元に手を当てながらつま先立ちすると、俊はいきなり彼女を強く抱き締めた。
「きゃっ!な、なに?」
「だからっ、メルが部屋に泊まってもいいって言ったから!だから、俺も覚悟を決めてっ……」
 あとは言葉が続かないらしく、ただただ海の肩口に顔を埋めるばかりだった。
「わ──私、そんな大胆なことを言ったの?本当に?」
 酔った勢いとはいえ、なんてはしたないことを言ってしまったんだろう。しかもそれを全く覚えていないなんて。海も海で、顔から火を吹かんばかりになって硬直していた。
「嘘なもんか。それに何回も、何回も俺のことが好きだって──」
 彼女を抱く腕に優しく力がこもる。
「──言ってくれたじゃないか。メルが忘れてても、俺は忘れないよ」
 酒に酔って醜態をさらしたことが恥ずかしくて、けれど同時に、彼がそんな自分も変わらず愛しんでくれることが嬉しくて。ますます恋に溺れていく感覚に、息が詰まるようで、海はしだいに涙目になってくる。
「風間さん、あなたのことが好き」
 俺も、と俊が小さな声で返した。
「何度言っても足りないわ。何年先も、何十年先も、私、あなたのことが誰よりも好きよ」
 さらに強く彼女を抱き締めながら、俊も同じ言葉を繰り返した。
 ──まずはこの人のシャツにアイロンをかけてあげなくちゃ。旗竿に旗を揚げるのは、そのあとね。
 燦々と降りそそぐ朝日のなか、遠い波の音と、つんとした潮風の香りと、優しい恋人の温もりに包まれながら、海はそっと微笑んだ。
 




end.

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