迷信 その日の案件は少し厄介だった。 生前は気位の高い姫君だったらしい少女の霊は、ボートに乗って三途の川を渡ることを頑なに拒むのである。 「嫌じゃ嫌じゃ。わらわはそんな小汚い舟などに乗りとうない」 振分髪をぶんぶん振り乱して少女が駄々をこねる。年の頃はりんね達より三、四は下をいくだろう。手に負えない我儘娘に、平生は忍耐づよく寛容なりんねも流石に嫌気がさしているようだった。 「だがこの川を渡らなければ成仏できないぞ」 「川を渡らぬとは言っておらぬ。ただその舟で渡るのが嫌じゃ」 りんねの肩の上で、六文が呆れ顔でいった。 「面倒な小娘ですね。襟首引っ掴んで飛んでいったほうが早いんじゃないですか?りんね様」 「なんじゃと?今なんと申した?化け猫風情めが」 少女が吊眼で六文を睨み付けた。負けじと睨み返す黒猫をりんねが「落ち着け六文」とやる気がなさそうに諌める。いよいよ面倒になってきたので気力が低迷しているのだった。 「あの、どうしてボートじゃ駄目なんですか?」 首を傾げて訊くのは桜である。少女はふうっと憂いを帯びた溜息をつくと、手にしていた扇子を開いて口元を覆い隠した。 「娘、そなたもおなごなら分かるじゃろ。この川の汀でうごけぬわらわの胸の裡……」 「いえ、全然」 即答した桜に少女は面食らい、扇子を取り落としかけた。 「そなた三途の川の迷信を知らぬのか?」 「迷信?」 そんなものは初耳である。桜はちらりと横を一瞥した。表情から見るに、どうやらりんねも六文も寝耳に水のようだ。 「で、その迷信とは?」 りんねが訊いた。少女は盛大な溜息をついた。 「揃いも揃って色気のない連中じゃ…。まあよい、教えてやろう。いにしえの時代、この川には迷信があっての」 少女は少し頬を染めた。 「おなごは、新枕を共にした男に手を引かれて渡ってゆくというのじゃ」 りんねと桜はきょとんとした目で互いを見合わせた。 「それはつまり……」 「その男を探してきて欲しい、ということか」 桜が途切れさせた言葉をりんねが最後まで言い切った。少女は恥じらいの表情でこくこくと頷いた。 「人探しからやり直しか…」 実のところ、今日のりんねは午前中から午後までバイトが入っていたので疲労困憊していたのだった。早く仕事を終えて帰りたかったのに、とりんねはがっくり肩を落とした。その背を、桜が励ますように押した。 「もうひと頑張りだよ、六道くん。せっかくだから、お姫様の気が済むまで付き合ってあげよう?」 「乗りかかった舟ですしね。りんね様、ちゃっちゃと終わらせちゃいましょう」 二人から励まされては身を奮い立たせないわけにはいかない。りんねは疲労の溜まった身体に鞭打ち、我儘娘の最期の欲求を満たすべく奔走するのだった。 現世に帰りついた時には水色だった空が群青色に深まっていた。疲れ果てたりんねは畳に仰向けになって「身体が鉛のようだ」と嘆いた。 「お疲れさま。今日は忙しい一日だったよね」 蝋燭に火を灯してテーブルに置き、桜が労いの言葉をかける。 「残念だったね。お姫様が連れてきてほしかった男の人、人間に転生してなくて」 「ああ…つねに人間に転生できるというわけではないからな」 りんねが苦い笑いを浮かべた。 奔走の甲斐あって居場所を突き止めたはいいが、その男は今生では蛙として生を受けたようだった。がっかりした少女は、 「蛙に手を引かれて川渡りなどばかばかしい」 といって緞子を捲し上げたかと思うと、介添えはいらぬといい、川の浅瀬をひとりで果敢に渡っていったのだった。 「最初からああやって自分で渡ってくれていればよかったものを」 りんねが恨み言を口にすると、桜はなだめるように言った。 「六道くんが頑張ってあの蛙を探してあげたから、お姫様も迷信を叶えるのを諦められたんだよ」 「そうだろうか…まあ徒労でなかったならいいんだが」 上半身を起こして、りんねは桜に手招きした。桜はくすっと笑った。 「疲れてるんじゃなかったの」 「それとこれとは別だ」 「でも、六文ちゃんが帰ってくるかも」 「大丈夫だ。あいつ気がきくから」 と、桜の手をとってりんねは笑った。 「いつか私が三途の川を渡る時は、六道くんが手を引いてくれるのかな」 蝋燭の火が消えた中で桜がつぶやいた。微睡みのさなかを漂っていたりんねは、桜を羽織ごと抱きしめて「ああ」と眠そうな声で答えた。 「ほんと?約束だよ」 桜がりんねの頬を手ではさみながら嬉しそうに言った。半睡状態のままりんねはむにゃむにゃと言った。 「うん、俺なんかでいいのなら…」 「六道くんじゃなきゃ嫌だよ」 少し汗ばんだ首元に頬を寄せ、桜は目を閉じて微笑んだ。 end. back |