衣領樹




 学校近くの公園に潜んでいた地縛霊を輪廻の輪に導き終え、りんねの一日は今日も帷を下ろそうとしていた。六文は定例会に出掛けていたが、もうクラブ棟にもどっているかもしれない。
 桜の手を引いて由無し事を遣り取りしながら、りんねは現世への帰路に着いていた。ふと、滞空の速度をすこし緩めて、眼下の景色を凝望する。
「六道くん?」
 りんねの意識が突然自分から逸れたことを不思議に思い、桜が呼び掛けた。りんねは首を少し傾げた。
「うーん、もしやあれは……」
 眼差しの先に何か見出したらしい。桜はりんねの視線を辿った。
 靄に包まれた大地を、緞子の帯を垂らしたような輝ける川がさやかに流れている。その畔は荒涼とした岩場になっており、枯れそうな一本の松木が申し訳程度に聳えている。
 木陰には幾人分かの人影が落ちていた。上空からで朧気ながらも見覚えのある人物を認識し、桜は声を上げた。
「あれ、架印くんじゃない」
 思いの外大きな声が出たらしく、聞きとめた白髪の少年が手庇を作って上向いた。自分の方に下降してくるりんねを見て、端整な面を思いきり不快げに歪める。
「なんだ貴様か、六道りんね。ぼくに何の用だ」
 すぐ近くに降り立ったりんねに、架印は邪険に言い放った。心の底から恨まれていることは重々承知しているので怯むこともなく、架印の背後をじっと見据えながらりんねは訊いた。
「架印、記死神のお前がここで何をしているんだ。職場をほっぽり出していいのか」
 架印はふっとニヒルな笑いを零した。そして仏頂面になった。
「記死神とて、いつも役所でデスクワークばかりというわけではない。時には出張って外の情勢を把握することも我々の務めだ。……ここで不正行為を働く輩を取り締まっていた」
 愛想も素気も無く事務的な口調で架印が告げた。それが合図だったように、彼の背後から二つの影が躍り出た。妙齢の男女だった。
「ちょっと、あんたら仲間?ならこの小僧なんとかしておくれよ」
 着物を着崩した婀娜な女が架印を顎でしゃくりながら、気だるげに言った。
「さっきからあたし達の仕事を邪魔してくるんだけど。ああ、可愛い顔して小憎らしいったらありゃしない」
「大体ここは死神の領域じゃないだろう。俺達が好き勝手やってなにが悪い」
 唇をとがらせながら不満を垂れるのは、背の高い傾奇者風情の男である。
 架印が調書を読み上げるように淡々といった。
「確かにこの場所は死神界の領域を越えている。だが三途の川の大半が死神界に属している以上、その治安を守るのは死神の務めだ。当然我々の権力も及ぶことになる。いい加減、ここで霊を裁くような真似は控えてもらおうか」
「ほうら、さっきからお堅いことばっか言ってる。馬鹿の一つ覚えみたいにおんなじことを何遍も何遍も。あたしは耳にたこができちゃったよ」
 女がうんざりした態で、架印に向けて手で払う仕草をした。
「仲間ならこいつを追い払ってくれよ」
 やれやれと首を振りながら男が言った。架印が柳眉を逆立てた。
「断じて仲間などではない。ぼくを奴と一纏めにするな」
「死神なんて皆一緒だろ。何偉ぶってんのさ」
 女がせせら笑った。裾をずるずると引きながら、彼等の応酬に些か気圧された様子のりんねに近付いていく。
「こっちの坊やはちょっと話が分かりそうじゃない。ん?」
 と、含み笑いを持たせて白く細い指でりんねの顎をすくった。りんねは顔色一つ変えず静かに言った。
「あなたは奪衣婆(だつえば)ですね」
 男にちらりと視線を遣った。
「……そして彼は懸衣翁(けんえおう)だ」
 女が唇をとがらせてそっぽを向いた。
「あたしはババア呼ばわりされるのが一番嫌いだよ。何のために若作りしてると思ってるのさ」
「若作りしてたって、寄る年の瀬にはかなわないけどな」
 男がどさくさに紛れて桜の手をとり、滑らかな手の甲の感触を楽しむように撫でながら、のんびりと言った。女がその脛を蹴り、りんねの鎌が頭を打った。
「いってえ」
「お前だってジジイのくせに」
「真宮桜から離れろ」
 男は涙目になって桜の手を解放した。
「年増女に悋気の強い死神の小僧ときた。命が幾つあっても足りないな」
「安心しな。空っぽになったら川を渡ってきた魂をぶっこんでやるよ」
 女がにやりと不敵に笑いながら言った。挑むような目付きで心なしか眉をひそめたりんねを見上げた。
「……架印くん、あの二人はどういう人達なの?」
 りんねが取り込み中らしいので、桜は近くにいた架印に耳打ちした。架印は腹の探りあいをしているらしい三人に怪訝な表情を向けながら、声の調子を落とした。
「奪衣婆は、三途の川を渡ってきた霊から水で濡れた衣服を剥ぎ取る。その衣服を衣領樹(えりょうじゅ)に懸けて霊の罪の軽重を定めるのが、懸衣翁だ」
「衣領樹?」
「この木だ」
 架印が背後を振り返り、今にも枯れそうな松の木を指し示した。
「あの二人は三途の川の治安を脅かしている。地獄の領域外で霊を裁くなど明らかな違反。それに罪なき霊の衣服まで剥ぎ取るというからたちが悪い。ありもしない罪を被せ、濡れ衣を着せて地獄へ引き込むなど言語道断だ」
 架印は苦々しい表情で言い捨てた。桜は神妙な顔をして、彼岸の辺境に厭世した老人のようにひっそりと佇む衣領樹を見上げた。
「あたし達はずっと昔からここで働いてたんだ。今更なんで追い出されなきゃいけないのさ」
 奪衣婆が金切り声を上げた。が、多少芝居がかっている感は否めない。本気で狼狽している様子ではなかった。
 りんねもそれを敏感に悟っているのだろう。丁重な態度をくずさずに説得を続けた。
「しかし、この木ももう限界だ。衣領樹が枯れたらあなた方も消えるはず。地獄に戻って余生をのんびりと過ごすのも悪くはないと思いますが」
「……余生ってなーんか嫌な感じだな」
「あたし達もそれだけ歳くったってことね」
 男と女はほぼ同時に肩を落とした。飄々としていた二人の草臥れたその様子に、初めて二人が過ごしてきた長い年月が垣間見えた。
「若い頃はそれこそ鬼のようにばりばり働いてたんだけどな」
「そうそう。この衣領樹も若々しくってね。水も滴るいい木って感じ?」
 自分で言って自分でツボに嵌ったのか、肩を揺らしている奪衣婆を無視して懸衣翁は回想をつづけた。
「でもいつの間にか死神が増えてきて、こっち側に来る霊はめっきり減ったもんな」
「ああ、その頃からだっけ。衣領樹が枯れてきたのも」
 奪衣婆が老人の皮膚のように乾燥した木肌を撫でながらいった。
 りんねと架印は押し黙っている。自分達に非がないことは承知でも、漠然と感じるばつの悪さは否めないらしかった。
 懸衣翁が場の空気を和ませるように茶化した。
「でも別に、お前達死神を恨んでなんかいないさ。彼岸にも此岸にも永遠なんてないんだ。俺達だっていつかは消えることになってるんだし」
「正直、いい加減ジジイババア共の衣ひっぺがすのも飽きてきたしねえ」
 肩を叩きながら、奪衣婆が粗野な口調で相槌を打った。
「いいだろう。坊や達の言う通り、あたし達は地獄に帰るよ。あんたも異論はないだろ?」
 視線を流された懸衣翁は、何かひらめいたように手を叩くと、桜にすっと近寄った。首元できっちり留められた制服の赤いリボンに手を掛け、冗談めかして笑う。
「冥途の土産にこの子の衣を貰っていくことにしようかな」
 呆れた様子の架印と奪衣婆をよそに、りんねだけはその言葉を間に受け、鎌で懸衣翁の頭を思い切り殴った。
「いてっ。冗談なのに」
「冗談でもやめろ」
 憮然としてりんねはいった。彼女を好色男の視線に晒すことすら嫌なのか、桜を背後に隠すようにして目の前に立ちはだかった。
「随分と悋気の強い死神もいたもんだねえ」
 奪衣婆がからからと笑った。架印はやれやれといった様子でその光景を眺めていた。


 懸衣翁と奪衣婆が地獄にかえっていくのを見届けてから帰路についた。りんねと桜の数メートル先を、袴の裾を向かい風で帆のように膨らませながら架印が飛んでいる。
 衣領樹の上空を通り過ぎるとき、三人はほぼ同時に視線を落とした。今や無人となった三途の川の畔で、今にも朽ち果てそうな木が佇んでいる。滔々と流れる川の水面に枯れ木の影が切れ切れに映っている。
「さっきあの人がいってたよね。彼岸にも此岸にも永遠はないって」
 桜がつぶやいた。ああ、とりんねは彼女の横顔を見詰めながら相槌を打った。
「でも永遠ってどれくらい長いんだろうね。想像もつかないよ」
「永遠の尺度というのは人それぞれなんじゃないか?」
「……人それぞれ?」
「ああ。たとえば懸衣翁と奪衣婆にとっては、衣領樹が枯れることが自分達の区切り。その区切りより先に、まだ時間が存在することを認めたくなかったり、信じられなかったりする──そんな時間を永遠と呼ぶのかもしれない」
 桜は首を捻った。
「区切りより先にある時間、かあ。でもその区切りって、死ぬこと以外にもあるってことだよね」
「そうだな。何かが失敗に終わる時とか、深く絶望した時とか」
 桜はりんねの顔を覗き込んだ。
「じゃあ、六道くんは?」
「え?」
「六道くんが区切りをつけるのは、どんなことがあった時?」
 りんねは面食らった顔をした。
「さ、さあ。考えたこともないな」
「そっかー。でもそんな時が来なければいいよね、お互い」
 桜はのんびりした声で締め括った。でも、とりんねが言い添えた。
「来てほしい永遠というのも、あるのかもしれない」
 不思議そうな顔をした桜から、りんねはふいと顔を背けた。
「逆説的になるが、良い意味の区切りだってある」
「何かが成就した時とか?」
 桜がにこやかに言うと、りんねはこくりと頷いた。
「そういう時というのは、その後に存在する時間が待ち遠しい」
「そうだよね」
「ずっと続いてくれればいいと願いもする」
「うん」
「……」
「私もだよ」
 桜が内緒話のように耳打ちした。りんねの耳が赤くなり、彼はたまらなくなって頭を抱えた。
「もういいだろう…」
「なんのこと?」
 この少女にだけは永遠に勝てそうもないな、と思う少年だった。


「まったく、惚気けた連中だ」
 幾ら声をひそめたところで、地獄耳の記死神には筒抜けである。永遠に続きそうな間の抜けた遣り取りをこのまま聞いているのも不愉快なので、架印は溜息をつきながら役所へ続く空路を逸れた。

 


end.


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