remnant  act.4




「悪いな。今日は東風先生のとこ、一緒に寄れねえや」
 バスケ部のユニフォームに着替える乱馬の側で、あかねは鞄に教科書を詰めている。物音一つしない、静かな放課後の情景だった。掃除係も既に帰宅した後なので、教室には二人以外誰もいない。窓から照り付ける夕陽が、着脱する乱馬の影を、掲示物で埋めつくされた壁に映し出している。
「一人で行けるよな?」
 夕陽を背負って笑う乱馬を見上げ、彼女はこくりと頷く。
「試合、頑張ってね」
「おうっ」
「あんまり飛ばしすぎないようにしなさいよ」
「分かってるって。雑魚共がへっぴり腰にならねえ程度に、せいぜい手加減してやるぜ」
 指をぽきぽき鳴らしながら、乱馬は自信満々に言ってのけた。勝利を前提に試合に赴く、それが彼の性分である。格闘においてもスポーツにおいても、優劣の付く勝負にはいつだって、こうべを高く上げて臨んできた。自分の勝利を信じて疑わず、敗北を予期することもない。強い人だと彼女は思う。
 そういう強さに彼女は惹かれたのだった。
 こそばゆくなって、微笑みながら、あかねは鍛え上げられた乱馬の上半身を見上げる。
 普段は服に隠れて見えない、程良く筋肉のついた上腕が、ユニフォームから剥き出しになっている。胸板は鋼すら跳ね除けるかと思われるほどに厚く、ちらりとのぞいた腹筋はくっきりと割れている。その全てが、幼少時から乱馬が積み重ねてきた努力の賜物であり、それなりの時間を掛けて手懸けてきた芸術品だった。
 逞しい身体を視線でなぞりながら、あかねは胸の高鳴りを押さえている。
 視線に気付いた乱馬が、不思議そうに首を傾げると、あかねは思わず本音を口にしていた。
「かっこいいよ」
「は?」
「今の乱馬、ちょっとだけかっこいい」
 一瞬乱馬は唖然とした。それから突然茹で蛸のような顔になって、脱いだ功夫服を意味も無くくしゃくしゃに丸め始めた。
「ば、ばっかじゃねーの。俺様はいつだってかっこいいっつーの」
 鞄の金具をとめて、あかねはくすくす笑いながら立ち上がる。
「ちょっとおだてるとすーぐそうなるんだから。玉に瑕よね」
「なんだとうっ」
 乱馬は彼女との間合いをぐっと詰める。長い影があかねに覆いかぶさった。この一年で彼は一段と背が伸びた。目の前に立たれると、顔を見上げるときにあかねの首が痛くなるほどだ。
 彼は片眉を上げる。
「あかね、おめーさっきから随分と余裕じゃねえか」
「あら。乱馬に余裕がなさすぎるだけじゃない?」
「ほーお」
 ……じゃあ試してみるか。
 そう囁いて、乱馬はあかねの下唇に親指を当てた。
 来るべき瞬間にそなえて、あかねは目を瞑り、息を止める。
 すると突然、額を指でぴんっと弾かれた。
「なっ!?」
「ぶわーか、期待してやんのー」
 乱馬はけらけらと笑っていた。あかねは額を押さえて、見当外れのことを期待した屈辱のあまり、小刻みに震え出していた。
「だ、騙したわね……!」
「おっと」
 あかねの拳を手に受け止めて、乱馬はにっと笑う。
「試合前なんだから、半殺しの目に遭うのはごめんだぜ」
 こんな奴に本音を言って損した、とあかねは仏頂面になった。乱馬は彼女の顔をのぞき込んで機嫌を取る。
「おいおい怒るなよー、帰ったらちゃんとしてやるから。な?」
「バカ。スケベ。今日から一週間、あんたはあたしの部屋に出入り禁止」
 途端、乱馬は雷に打たれたような顔をした。
「う…嘘だろ!」
「大真面目だけど?」
「だ、だって、一週間おめーの部屋に入れねえってことは、あんなことやこんなことが……」
「スケベ」
 一言で一蹴し、あかねは踵を返した。情けない声を振り切って、戸を思い切り閉めてやる。中からはまだ悲愴に暮れた呼び声が聞こえてくる。
「あんなに残念がることないのに、乱馬ったら」
 引き戸に寄り掛かり、あかねはふふっと笑いをこぼした。帰ったら冗談だといって思い切り甘やかしてあげようと思いながら。
 ──よかった。あいつのおかげで、今なら笑ってあの人の所へ行けそう。
 彼女は安堵の溜息をつき、無人の廊下の先を見据えた。




To be continued


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