remnant  act.3




 東風は冷えきった緑茶を啜りながら、待合室に置いてある鉢植えに水を遣っているあかねの後ろ姿を見つめていた。その隣には、彼女の動作を見守る乱馬の姿がある。
 今日学校であった出来事でも報告し合っているのか、二人は時折笑い声を上げたり、肘で互いを小突き合ったりしていた。仲睦まじいその後ろ姿は、つい一年前まで意地を張ってばかりいたあの二人のものとは思えないほどに穏やかで、落ち着いている。
 その鉢植えは、ついひと月ほど前にかすみが持ってきたものだった。
 どことなく殺風景だった待合室が、その鉢植えひとつで見違えるように見えたこと、水遣りを名目にこれからは毎日寄ってくれるというかすみの言葉に、舞い上がってしまったこと。すべてが遠く、懐かしく思えた。
 迫り来る虚無感に耐えられなくなり、東風は気を紛らわすため、茶のお代わりをつごうとした。が、急須からは数滴の濁った雫が零れ落ちただけだった。立ち上がって台所に足を運ぼうとして、しかしすぐに面倒になり、東風は溜息をつきながら椅子に再び腰を落ち着けた。
 スカイブルー色の制服を、彼は机に頬杖を付きながら、懐かしいものを見る遠い眼差しで見つめた。同じ制服を着ていた頃のかすみの後ろ姿を重ね、結局叶うことのなかった片恋に、東風は思いを馳せる。
 天道かすみという女性は、彼に別段特別な想いを抱いていたわけではなかっただろう。彼女はまさに観音菩薩のように、誰にでも慈愛を持って接することのできる人だった。だから彼女の中にはきっと「特別」という概念はなかった。皆が愛すべき家族のような存在であり、それが彼女の幸福なのだということを、東風は知っていた。
 ──そして、もしいつか想いを伝えることがあって、仮に彼女が首を縦に振ってくれたとしても。それは彼自身が抱くものとは違った意味の愛情にもとづく返事だっただろう、ということも。


 あの頃彼女の二番目の妹が、彼に少なからず好意を寄せていたことは、薄っすらと気がついていた。
 天道家となにかと縁のある東風は、あの家の三姉妹のこともよく知っていた。だからこそ彼女達の未来について、ひとつ確かなことがあった。
 ──彼女達は皆、強い男を愛するようになるだろう。
 武術家を父に持ち、道場を構える家に生まれた以上、それは彼女達にとって宿命的であり必然的なことかもしれない。
 それなりに格闘を嗜んでおり、しかも身近にいる東風という男に、幼いあかねが淡い想いを抱くようになったのは、自然の成り行きだったのだろう。
 あの頃のあかねはまだほんの幼い子供でしかなく、彼自身年の離れた妹を可愛がるかのように接していた。それがたった数年で見違えるように成長して、彼の目の前で不意に少女らしい表情をするようになり。かと思えばいつの日からか、彼女の恥じらいの対象が彼から逸れ、そして完全に振り向かなくなった。
 そのときは、あかねがようやく彼女自身に似合う「強い男」を見つけることができたようだ、と東風は好ましく思ったものだった。
 ──それなのに、なぜだろう、と東風は貝に混じった砂を噛む思いを味わっている。
 こうして仲睦まじい様子の二人を見ていると、鉛が腹の底に落ちていくかのような重たい感情を覚える。
 今までは慈兄の眼差しで、不器用にぶつかり合う二人を見守ってきていたはずだったのに。


「じゃあな、東風先生。ぶっ倒れねえようにちゃんと飯食えよ。顔がやつれてるぜ」
「うん。心配してくれてありがとう、乱馬君」
「へへっ。ここ休みになっちまったら、この辺のジジイ共がギックリ腰になった時に困っからなー」
「ちょっと乱馬、その言葉遣いなんとかならないわけ?」
 あかねに呆れ顔ですかさず指摘され、乱馬が口をへの字に曲げた。
 あかねの追及から逃れるべく駆け足で飛び出していった乱馬に、東風は愛想笑いを浮かべて手を振った。そして、置いて行かれて不満げな顔になって踵を返そうとしたあかねに、ふっと含み笑いを投げ掛ける。
 途端にあかねは面食らった表情をした。
「またおいで、あかねちゃん」
 東風は楽しそうに告げた。


 通り過ぎざまに骨格標本の「ベティちゃん」を横目で一瞥し、東風は自嘲気味に笑った。
 かすみが生きていた頃、彼女がここを訪れると人が変わったようになって、この骨格標本を持ち出しては、滑稽なことをしていたのを思い出したのだった。
 すべて演技だった。
 滑稽で救いようのないような人間を演じれば、誰に対しても平等な菩薩のような彼女も、特に目をかけてくれるようになるかもしれない、と思ったのがはじまりで。
 いつの間にか彼女の姿を見かけると、条件反射のように身体が勝手に動くようになっていたが、そんな猿芝居をすることももう二度とないだろう。彼女の死とともに舞台の幕は降りたのだから。
 ふと、葬式の日にあかねが言った言葉を東風は思い出した。
『自分を繕ったりしなくていいんです。ありのままの先生でいてください』
 面白い子だ、と東風は微笑んだ。猿芝居を打つ彼の本質をあの少女は見抜いていた。ならばもう誰かを演じる必要などない。想い人を前にして頭のネジが外れたようにおかしくなる誰かも、そして兄のように優しい誰かも。




To be continued...
 

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