remnant  act.2

 


 葬式から数日が経った。誰かが叩く木魚の音で、一日がはじまる。
 天道家は閑散としていた。たった一人の不在、されどその存在こそが、この家にとっては不可欠な核であったのだということを、残された面々は実感している。
 乱馬とあかねは、悲愴感漂う家にいることが耐えられなくなったかのように、連れ立ってそっと家を出た。どことはなしに歩みを向けながら、隣で窪んだ目を擦るあかねを、乱馬は気遣わしげに見遣る。
「あんまり寝てないのか」
「うん。目を閉じると、ついかすみおねえちゃんのことばかり考えちゃって……」
 乱馬が同意を籠めて頷きながら、溜息を零した。
「……ずっと世話になってたのにな。礼の一つも言えなかった」
「あたしも」
 足元の小石を爪先で軽く蹴りながら、あかねが沈んだ声色で同調する。
「かすみおねえちゃんには、いつか自分の幸せを掴んで欲しいって思ってたの。家のことを全部任せっきりだったから、いつか好きな人と一緒になって、誰よりも幸せになって欲しかったのに……」
 肩を震わせたあかねに、乱馬が寄り添う。彼女が落ち着くのを待ってから、再び歩き出した。
「東風先生、大丈夫かな」
 乱馬はぽつりとつぶやいた。あかねに向き合って、
「東風先生に会いに行ってみるか」
 と真剣な眼差しで持ち掛ける。
 すると一瞬、あかねの瞳が戸惑いに揺らいだ。葬式の日の出来事が脳裏に蘇っていた。無意識のうちに手首を掴む。
「あかね?」
 乱馬が心配そうに呼びかける声で、あかねは我に返った。首を振ることによって、雑念を追い払おうとする。
「なんでもないの。そうよね、東風先生のところに行ってみましょう」
「大丈夫か?やっぱり疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫よ。心配しないで」
 ねぎらいに心温まる思いがしながら、接骨院に方角を定めて二人で歩き出す。しかしあかねの心は、同極の磁石がくっつき合うことを避けるかのように、反対側へ引き返したがっていた。
 以前はあんなにも行くことを楽しみにしていたはずの、街角の小さな接骨院。どうしてか今は辿り着きたくなかった。
(あの目で見られたら、どうしたらいいか分からなくなるわ)
 あかねは乱馬の腕に自らの腕を絡めて、身を更に近く寄せた。立ち止まった乱馬が、周囲にさっと視線を走らせた後、彼女の顎に手を掛けて上向かせる。あかねは瞑目した。頭の中からほろ苦い初恋の追憶が刷毛で払われたように消え、代わりに唇から広がる甘い痺れと幸福感が満たした。



 引き戸を開けると、嗅ぎ慣れたクレゾールの香りが二人の鼻を掠めた。
 待合室のベンチに座して待つ患者は無く、小さな医院の中は水を打ったように静まり返っている。
「すいませーん。東風先生いますか」
 乱馬が閉じられた診察室の戸に向かって呼び掛けたが、返事はなかった。電気が点いていないせいか、昼間にもかかわらず院内は薄暗い。
「先生、いないのかな。鍵開いてんのに」
 奥の方を覗き込みながら、乱馬は僅かに首を傾げた。
 返答のないことに内心安堵した自分に、あかねは自己嫌悪を覚える。乱馬の隣で、気付かれない程度の溜息をついた。
「俺、ちょっと奥の方見てくる」
「だめよ、留守かもしれないのに勝手に上がっちゃ」
「でも鍵開いてるし。とにかく、診察室だけ見てくっから」
 あかねの静止を振り切り、乱馬は布靴を脱いで中へ入っていった。あかねは二度目の溜息をついて、診察室のドアの向こうへ消えていく背を見詰めていた。
「こんにちは、あかねちゃん」
 思わず口元に手を当てて、悲鳴を呑み込んだ。
 弾かれたように振り返ると、すぐ真後ろにこの接骨院の院長がいた。掴みどころのない微笑を浮かべて、あかねの肩に親しげに手を置く。
「もしかして、会いに来てくれたの?」
 首を傾け、どこか嬉しそうに東風は訊く。そんな彼の心中を測りかねて、あかねはぎこちない微笑みを湛える。
「こんにちは…東風先生、あの、いつからそこに?」
「君たち二人が入ってきた時から、ずっと後ろにいたんだけど。気配に気付かなかった?」
 東風がくすっと笑った。あかねは肩に置かれた右手が、微かに重量を増したような気がした。
「まさか、あかねちゃんの方から僕に会いに来てくれるなんてね。僕も会いたいと思ってたから嬉しいよ」
「そうですか…あ、あの、乱馬が先生を探してて」
「もしかして、僕のことを心配してくれてた?」
 悪戯少年の眼差しで東風が嗾ける。あかねの言うことはあまり聞こえていないのか、はたまた聞こえないふりをしているのか。
 顔の距離がすっと近付くと、あかねは息を呑んだ。かつては憧憬を抱いていたその知性溢れる瞳を、こんなに間近で見たことはなかった。昔の彼女ならばきっと、茹でトマトのように赤面していたことだろう。今の彼女は相反して、幽霊でも目の当たりにしたように青褪めていた。
「あかねちゃん。僕はね、本当にかすみさんのことが好きだった」
 あかねの髪の一筋を指にくるりと巻きつけながら、東風は静かに告げた。
「あの人にもう会えないと分かって、正直絶望したよ。水すらも喉を通らなかった。でも、あの日からはだいぶ気分がいいんだ」
 東風は真顔になった。
「あかねちゃんがいるから」
 あかねは震える唇を噛み、自分を強く抱き締めた。東風の声色は相変わらず物腰が良く静かだったが、肩に置かれた手と同様、その言葉は鉛のように重く感じられた。
「ねえ、あかねちゃん」
 硬直しているあかねの耳元に、内緒話をするように唇を近付けて、東風はそっと囁きかけた。
「乱馬君じゃなくて、僕にしておく…っていうのはどう?」
 あかねは目を見開いた。東風は既に何食わぬ顔で彼女から数歩離れ、人の良い笑みを浮かべながら彼女の背後に手を振っていた。
「なーんだ。先生、そこにいたんすか」
「はは、ごめんね。庭で花に水遣りをしていたんだよ」
 乱馬と東風の会話を右から左へ聞き流し、あかねは放心状態でいた。無意識のうちに、耳朶に触れている。
 葬式の日の予感が外れてはいなかったことを彼女は直感した。彼は危険な綱渡りに踏み出してしまった。死人の面影に救いを求めている。そしてその導火線は、彼女だった。
「……そうなんですか。じゃあ俺たちが毎日遊びにきますよ。最近あんまり来てなかったし」
「本当かい?嬉しいよ。ありがとう」
 あかねは意図せず、隣に立つ乱馬の手を握り締めていた。乱馬は彼女を見遣ってはにかむように苦笑し、その手を握り返した。
 繋がれた手を見下ろしながら、東風は言った。
「いつでもおいで。楽しみにしてるよ」
 そして眼鏡の奥で理知的な瞳を細めて、ふっと微笑んだ。




To be continued...


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