─ 蛇の婿 ─



「おめでとうございます」
 帳場のあるじはその声に振り向き、輝くような娘の瞳をじっと見つめ返した。
「それは、私に言っている?」
 もちろんです、と屈託のない笑顔で相手はこたえる。
「ハク様は明日、ご結婚なさるんでしょう?」
 見知らぬ相手に話しかけるような、他人行儀の口調。記憶を封じられた今の千尋は、かつてハクとこの町で出会い、並々ならぬ縁を結んだことを知らない。その瞳には純粋に、結婚をひかえた若者への祝福と、華やかな婚礼への憧憬だけがありありと見て取れる。
「わたし、ここに来たばかりですけど、明日はいい式になるように、心をこめてお手伝いしますね」
 大人になった、と彼は思う。
 何の因果で彼女がふたたび油屋にやってきたのかはわからないが、数日前の始業後、ハクがそのことに気付いた時には、千尋はすでに湯婆婆との対面を終えた後だった。子供のころ、両親とこの町に迷い込んできた時とはまるで様子が違っていた。自分のおかれている状況を即座に把握し、最善の選択をするために自ら動こうとするだけの気概を、今の千尋は持ち合わせているようである。
 ハクはそんな千尋を眩しく見つめる反面、もう自分の手助けは不要なのだと言われているようで、やや寂しいような気もするのだった。
「今日はゆっくりお休みください、ハク様」
 ぺこりと頭を下げて、帳場から出ていく千尋。入れ替わりに湯番の蛙男たちが入ってくるが、ハクの視線はしばらく、千尋が消えた戸口に留められたままだった。
 
 南のさる大河に棲む大蛇オロチを父にもつ女神は、名を青湖主せいこしゅという。
 オロチは油屋の上客で、蛇の眷族であるハクをかねがね目にかけており、娘の夫に望んでいたのである。ハクは婚姻などまったく考えていなかったが、立場上拒むことはできなかった。仕方がなく、蛇の婿になれば湖のヌシとなり、トンネルの向こうで生きることができるという打算から、オロチの申し出を受け入れることにしたのだった。
「ハク様、ここにお衣装を用意しておきますね」
 朝、花婿の部屋を訪れた千尋は、衣桁に真新しい婚礼衣装を掛けている。まさしく蛇公主の婿に相応しい、上等な誂えである。
「きっとよくお似合いですよ」
 にっこりと笑いかけられて、ハクは何やら胸がざわついた。千尋には祝ってほしくない。
「本当にそう思うの?」
「はい。花嫁さんももうすぐ到着なさるそうですけど、きっときれいですよね」
「さあ……。どうだろうか」
 妻となる青湖主とは一度も顔を合わせたことがないのだ。知るはずがないし、興味もない。
「そんなことより、千──いや、千尋」
 千尋は彼が自分の名を知ることに驚き、そして警戒したようだった。構わずにハクは彼女の肩をつかみ、じっとその瞳を覗き込んだ。
「本当に私のことを覚えていない?」
「ええと……前にお会いしたこと、ありました?」
「よく思い出してみて。私に見覚えがあるはずだ」
 瞬き一つせずに見つめるが、相手は困ったように眉を下げるばかり。
「すみません、思い出せないです。──あの、それより、そろそろ支度をなさった方が」
 着替えの邪魔になると思ってか、これ以上不用意に絡まれるのを避けるためか、いそいそと部屋から退出しようとする千尋。
 あくまで他人行儀を通そうとする千尋に、彼の中で何かがぷつりと切れた。
「よく分かった。千尋は私が婚姻することを、心から祝福してくれているようだね」
 壁に手をつき、強制的に退路を断つ。不機嫌を隠そうともしないハクの態度に、哀れな千尋は縮み上がった。
「私を思い出すまで、ここからは一歩も出さない」
 蛇との婚姻などどうでもいい。今はただ、この薄情な娘をどうにかしてやらなければ気が済まない。

 


17.02.20 【リクエスト/油屋に帰ってきた千尋がハクと客の娘との結婚を図らずも台無しにする話】

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