命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 15 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 15


 ほの暗い座敷に少年はひとり正座している。
 固く閉じた目蓋の裏側に、今までその瞳で見てきた幾つもの辛辣な光景を映し出しながら、少年は何度噛み締めても薄まることのない苦渋を味わっていた。
 忌まわしい記憶を遡る。聳え立つ高楼、空を飛ぶ鉄と火薬の匂いを纏った鳥、外つ国から黒船に乗ってやって来た紅毛碧眼、人間がこの秋津島に齎した驚異と脅威の歴史を辿っていく。
 まだだ、もっと遡らなければ。人間の知能が妖怪の妖力を凌駕するよりもずっと昔、遥か彼方の原始の日々まで。少年は、記憶の再現に全意識を集中させた。

 幾つもの狗吠が折り重なるように轟き渡った。
 見渡す限りの一面が深緑に覆われている。高層ビルや飛行機、奇っ怪な異人の姿などどこにもない。ありのままの自然が剥き出しになっている。
 かつてそこは、唯々妖怪の蹂躙を恐れるか弱く無能な人間達が犇めき合う、矮小な島でしかなかった。

 同胞である大犬達が威厳をはせ、もののけの跋扈する世を闊歩し、遮るもののない広大な天空を颯爽と駆け抜けていた。数多いる妖怪族の中でも、妖犬族は極めて高位にあった。
 その輝かしい彼方の追憶の中に、在りし日の少年はいた。
 彼はかつて、東に棲む妖犬達を束ねる若頭領だった。西とは先代から縄張りをめぐって一触即発の緊迫状態が続いており、いつか狼煙を上げることは避けられないだろうといわれていた。
 案の定、些細な諍いがきっかけとなって、東西に分かたれた犬妖怪達はとうとう、真っ向から対峙するべく境目に集結する運びとなった。
 大将として初陣に赴いた少年の心中は、野望に満ちていた。必ずや西勢力を制圧し、この島全土の犬妖怪達を掌握してみせる。燃え盛る野望の中に、とこしえの栄華を思い描いた。
 東の犬達が太陽のような黄金色であるのに反し、西の犬達は月のような白銀の毛並みをしていた。自分と同じく年若き敵陣の大将を眺めながら、少年は優越感に浸った。
 自分達東軍は、まさしく太陽の昇る方角に棲まうもの。太陽が自らで輝きを放つ一方、月は太陽の光を受けなければ光を纏うことができない。太陽なくして月はなし。西軍が鬨を上げる日は永久に来ない。
 戦闘の火蓋は年若き大将達の咆哮によって、切って落とされた。熾烈な戦いが七日七晩続いた。東西問わず、多くの妖犬達が敵の歯牙にかかって命を落とした。
 そして、屍山血河のなかで最後まで凄惨な死闘を繰り広げていた大将達は、七日目の晩にとうとう、相討ちとなって同時に力尽きた。
 決着の行方は子孫に委ねられることとなった。野望を挫かれ未練を残して死んだ少年は、死してもなお浮かばれずに東西の境目に留まり、子孫と敵方との戦乱を眺めていた。
 相討ちとなって果てた敵も、同じようにそこに縛り付けられていた。始めのうちは決して近寄らずに距離を置いていたが、数百年の時が経つと、話し相手がいないことが退屈で堪らなくなった。
 いつしか憎しみを抱いていたはずの敵と並んで、時の流れを見守るようになっていた。やがて東が西に負け、黄金色の妖犬は滅びた。悔しさと寂寥を覚えはしたが、死んでいる身ではどうにもできない。時の経過と共にそういった感情は風化していった。
 代わりに憤りが芽生えていた。太陽にとって代わった月に翳りがさしてきていた。とるに足らないと思っていた無能で矮小な生き物が知恵をつけ、妖犬を脅かし始めたのである。
 時代は目まぐるしく変化していく。犬妖怪達はかつて先祖が誇った威厳を失い、人間に制圧され、懐柔されていく。ただの犬と成り果てた彼等を見て、少年は腸が煮えくり返る思いだった。すぐ隣で、かつての敵も苦々しい表情をしていた。
 かち合った視線を合図に、少年達は結託することになった。黄金と白銀と呼び合うことにしたのは、金銀の色彩が交錯した、あの死闘を受けてのことだっただろうか。
 ──この世から、犬妖怪の血を引くものを滅びさせはしない。
 その時点で、西の流れを汲む直系の子孫は二人いた。一方は完全無欠の妖怪、他方は半妖。かつては混血を蔑んでいた少年も、同属の血の保持の為にその概念を捨てた。
 瀕死になった半妖を洞窟で見付け、さまよえる犬の魂を与えた。同属の魂が馴染んだと見え、半妖は生命を長らえた。妖怪の兄は娶った人間の娘が死ぬと子孫を残さずに雲隠れしてしまい、地上に残る妖犬の血脈は既にこの半妖だけだった。絶対に生きながらえさせてみせる。
 この日以来、この半妖の存在を維持することが、少年が世に在り続ける目的となった。


 白銀は池の淵に立って、水面から掬い上げた蓮の花を眺めている。遥か昔、東との戦いに赴く前に契りを交わした許嫁の娘を思っていた。どこか薄幸そうな雰囲気を漂わせていた娘だった。彼女はこの花をとても好んでいた。
 必ず帰るという約束を彼は反故にしてしまった。その後ろめたさから逢いにいけずにいる間に、初陣前夜の一度きりの情交が娘の腹で実を結んでいたことなど、知る由もなかった。
 漸く踏ん切りをつけて西の邸に赴いた時には、娘は既にこの世にはなかった。彼女が命と引き換えに産んだ、彼とよく似た玉のような男児が、乳人(めのと)の腕で安らかに眠っていた。
 ふと、この子には自分の道を辿って欲しくないと白銀は思った。しかし、死んだ者に生ある者の生き様を変えることなどできない。
 やがて男児は屈強な若者になり、白銀の留まる東西の境目にやって来た。またしても決着はつかなかった。戦いは血と共に脈々と受け継がれていく。かつて自らが火蓋を切った対立を目の当たりにするたびに、白銀の杞憂は募っていった。
 時が流れ、果てには西に勝鬨が上がった。喜びなど微塵も感じられなかった。同属同士で滅ぼし合うとは、何という愚行だろうとすら思った。幼い情熱に突き動かされて引き起こした愚かな争いに、大事な子孫を巻き込んだことを心底後悔していた。
 更に数百年が経ち、白銀はあることに気付いた。彼自身が、ただの亡霊でしかないことには変わりないが、結界をはったりする程度の力は有しているらしいことに。
 先祖の御魂というのは、子孫を庇護してやるのが万物の理。ならば今度こそ、このなけなしの力で、自分の血を継ぐ者達を守ってやりたいと思った。
 西の妖犬族の末裔は二人いた。妖怪である兄の方は心配には及ばないが、無鉄砲な性らしい弟の半妖が気にかかった。その上、人間の仲間達を失ってやや自暴自棄になっている節があった。
 案の定、本調子でないときに厄介な妖怪と戦って、半妖は重症を負った。死途をさまよいかけていた半妖に、狗魂を与えて救ってやった時、この子を生かしてやりたいと白銀は強く切望した。遠い日に亡くした許嫁の名残が、気の遠くなるほどの時が経ったというのに、その面立ちに残っているからだった。そしてそれは、同時に在りし日の白銀自身の忘れ形見でもある。
 ──死なせはしない。どんな手を使ってでも。
 自分が先祖の亡霊であることを隠し、同じ志をもつ黄金と共に、半妖を結界に匿った。犬夜叉という名は勿論既知だったが、狗魂によって自我を失っていく彼を、その名で呼び続けることは残酷かもしれないと思い、犬神という呼称を使うようになった。
 半妖に、懸想する娘がいることも知っていた。未来を生きるその娘と、かつて過ごした記憶が薄れていくのを苦悩しているようだったが、命あってこその邂逅だ。再び逢いたいのなら生きるしかない。
 そんな思いを篭めて、色褪せた衣を手にして記憶の欠落におののく半妖に、白銀はひとつの詩を教えた。

 命をし 全くしあらば 球衣の ありて後にも 逢はざらめやも

 命さえあったなら、きっとまたいつか逢える。たとえ衣の色が褪せようとも。
 だから生きることを恐れてはいけない。また逢える機会があるのなら、決してそれを逃してはいけない。
 彼岸と此岸に分かたれては、どんなに願おうとももう永遠に手が届かないのだから。

 白銀は蓮の花にふうっと嘯いた。花びらが舞い上がって、夜明けを迎えようとしている薄明るい空に吸い込まれるようにして消えた。
 その果てでもう一人の子孫が息災であることを願った。




To be continued 

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