命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 14 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 14
R-15


 座敷を訪れたかごめの衣から微かな狐と火の匂いがした。覚えのある匂いだった。
「……誰かと会ってたのか?」
 と犬夜叉が訊くと、かごめは暇つぶしに施していた火鼠の衣の修繕をする手元を狂わせ、針で親指を突いた。
「いった!もー…」
 苛立ちながらかごめは指の腹から血の玉が膨らんでくる親指を口に含もうとした。手を伸ばした犬夜叉が、咄嗟にその手を奪い取った。
「えっ?」
「……あ」
 犬夜叉が触れてくるのは実に十日と数日ぶりのことである。かごめは少し緊張した。
 自分の行動に戸惑ったらしい犬夜叉は、慌ててかごめの驚き顔から目を逸らし、袂から錦の布を取り出しながら繕うように言った。
「舐めたって治んねえぞ。縛らねえと」
 犬夜叉は布の端を牙で挟み、ビーッと細く裂いた。上質な布がただの布切れのように惜しげなく引き裂かれるのを見て、かごめは思わず「あーあ」と残念そうな声を零す。
「なんだよ?」
「もったいないじゃない。ものは大事にしないと」
 指に布を巻きつけてやりながら犬夜叉はくっと肩を揺らした。
「ただの布切れだろうが。お前の傷の手当の方がよっぽど大事だ」
 不覚にもその言葉がかごめには嬉しかった。そしてそんなことをさらりと言う犬夜叉が途端に艷めいて見えた。
「犬夜叉…」
 含みある呼び声に乗せられそうになり犬夜叉は慌てて話題を強制転換した。
「で?さっきは誰かと会ってたのか?」
 かごめは表情を消した顔を俯かせた。手当してもらった指を見下ろしながら首を横に振る。
 嘘をついている、と犬夜叉は思った。
「俺の鼻は誤魔化せねえぞ。お前の衣から狐と火の匂いがする」
 ほんの僅かに語気を強めると、かごめは観念したように諸手を上げた。
「あんたの鼻が利くってこと、すっかり忘れてた。じゃあ仕方ないから言うけど…七宝ちゃんに会ってきたわ」
 七宝。かつて仲間だった妖狐であると聞いている。かごめを除く五百年前に関わった者達の名を、犬夜叉はまだ思い出せていなかった。
「……その狐、お前に何の用があってここに来た?」
 嫌な予感を覚えながら犬夜叉は訊いた。案の定かごめの顔が強ばり、予感が確信に代わった。
「七宝ちゃんはね、犬夜叉が…」
 かごめは犬夜叉から視線を外して言い淀んだ。焦れた犬夜叉はかごめのまろやかな肩を掴んで、驚きに丸まった目を強い眼差しで射抜いた。
「はっきり言ってくれ、かごめ」
「犬夜叉…」
「七宝は、俺について何と言っていた?」
 かごめはふるふると噛み締めた唇を震わせ始めた。黒曜の瞳が水に濡れていく。
 これは泣くなと犬夜叉が思ったと同時に、かごめが犬夜叉の首筋に縋り付いてしゃくりあげた。
「七宝ちゃんが言うのよ、犬夜叉が私の魂を食べようとしてるって。だから側にいちゃいけない、ここから出なくちゃいけない、って……」
 ──ああ。犬夜叉は気張っていた肩から力が抜けるのを感じた。脱力感が全身を見舞う。かごめの肩を掴んでいた手が畳に落ちた。
 遂に知られてしまった。自分の裡に潜むおぞましい欲望を。
 妖狐の言葉は一言一句たがわず全てが紛れもない真実だ。
「ねえ、そうなの?私はあんたの側にいちゃいけないの?ここから出なくちゃいけないの?やっと逢えたのに、また逢えなくなるの?嫌よ、そんなの…」
 犬夜叉の首筋に縋りながらかごめが啜り泣いた。心安らぐ彼女の匂いに混じって、狐と火と血の匂いがした。
 抱き締めようとして犬夜叉は断念する。かごめを泣かせている張本人の自分にその資格はないと思った。
「──そうだ」
 ややあって、犬夜叉が静かに告げた。かごめの全身が凍り付いた。
「お前は俺の側にいちゃいけねえ。……七宝と一緒に、ここを出て帰るんだ」
 からからに乾いた声でかごめが訊いた。
「帰るって、どこに?」
「……お前の在るべき場所だ」
「私の在るべき場所?どこ、それ?ここじゃないんなら、他にどこにあるっていうの?」
 かごめの涙混じりの声の調子が上がっていく。犬夜叉は言葉に窮して押し黙った。それをよしとせず、かごめは犬夜叉の両頬を手で挟み込むと、吸い付くように唇を押し当てた。
 目を丸めた犬夜叉を力の限り畳に倒してかごめはその腰に跨った。黒い水干を肌蹴させながら無性に涙が止まらなかった。声を張り上げて自分を求めてくれない彼がもどかしく憎らしい。自分はこんなに彼を欲しているのに。側にいたいと思うのに。
 手に入らない女性の肢体を激情でもって抑え込み思いを遂げようとする男性の気持ちが分かるような気がした。無理矢理奪ったところで最後に手元には何も残らない。わかっていても逸った情欲は抑えきれない。
 川のように長い髪が畳を流れる。犬夜叉が頭を振る度さらさらと畳の目を擦れる髪束の音にせせらぎを幻聴する。体勢が逆転するとかごめの頬に涙とも汗ともつかない滴が降り落ちた。
 投げ出されたかごめの手に犬夜叉は自らの手を重ねた。かごめが握ると犬夜叉は一層力を篭めて握り締めた。それを合図に犬夜叉は瞳を固く瞑り、身を震わせた。
 一体感をとどめたまま犬夜叉はかごめをかき抱く。かごめも瞳を潤ませたままその背に腕を回した。
「……言って、犬夜叉。私がほしいって」
「──」
「私が持ってるもので、犬夜叉がほしいと思うものがあるなら、何でもあげる。魂でもなんでも…だから、」
 犬夜叉はこみ上げる切情に耐え切れず再びかごめを倒した。涙が溢れてかごめの顔がよく見えない。呼吸すら忘れるような長い口づけをした。
 なぜこんなどうしようもない男をこれほどまでに愛してくれるんだろう。それほどまでに優しくしてくれるんだろう。あと何度心を奪われれば、愛しいと思わなくて済むようになれる。無償の愛情を向けてくれる彼女への愛しさに息が詰まりそうだった。
「すまねえ、かごめ。お前をここまで追い詰めたのは俺だ」
 犬夜叉が悲哀を帯びた声で言った。声とは裏腹に身体は再びかごめを雄々しくせめ立てる。白い喉を仰け反らせてかごめは目を瞑った。

 一体どちらが犬夜叉の本心なのだろう。
 側にいてはいけないというその言葉が実か。それとも、抱き留めるその腕の強さが実か。
 


To be continued 

back


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -