行き触れ  - Chapter 2 -



 翼が背後の桜を魔狭人の視線から守るように、一歩前へと歩み出た。悪魔の囁きをまるっと信じるつもりは毛頭ない。懐疑的な眼差しを空に浮かんでいる魔狭人へ送る。
「六道が地獄にいるだと?一体どういうことだ。やっぱりお前が関わっているのか?」
「僕がりんねくんに何かしたとでも?とんだ濡れ衣だな」
 やれやれ、と魔狭人は大儀そうに首を振る。
「むしろ僕は今、りんねくんを助けてやっていると言っても過言じゃない」
「どういうこと?六道くん、危ない目に遭っているんじゃないよね?」
 桜の声に緊張がにじむ。悪魔の顔からふっと微笑が消えた。抑揚のない声で彼女に問いかえす。
「お前は、行き触れという言葉を知っているか」
「──行き触れ?」
 反応したのは問われた桜ではなく、翼だった。物問いたげな桜の視線を受けて背後を振り返る。
「翼くん、行き触れって何?」
「古くから伝えられる、触穢【しょくえ】のひとつだ。死人の穢れに触れて、自分もその穢れを受けるということなんだが、まさか」
 翼の顔色が曇った。
「──まさか、六道が行き触れに遭ったとでも?」
「その、まさかなんだよな」
 魔狭人が小さく溜息をつく。
「地獄で、運悪くタチの悪い悪霊に絡まれたらしくてね。りんねくんは、どうも浄霊に失敗したらしい」
 ──浄霊に失敗した。あの六道くんが。普段のりんねが死神としてどれほど有能であるかを誰よりもよく知るだけに、桜は驚愕に目を見開いた。
「しかも浄霊に失敗しただけじゃ済まされず、悪霊に憑依されたみたいだ。僕はたまたま通り掛かったんだけど、あの時のりんねくんはかなりまずい感じだったな。興味本位で近づいてみたら、危うく鎌で殺されかけたし。……で、散々凶器を振り回して追っかけ回しておいて、急に正気になったんだよ。かと思ったら、このままじゃ何をするかわからないから、俺をどこかへ閉じ込めてくれ、なんて言うんだ」
 桜と同様、翼も信じられないものを見る目つきで悪魔を見つめ返した。
「あの六道が悪霊に乗り移られた?──なかなか信じ難い話だな。あいつはあれでも一応死神だろう。なんだってそんなヘマを?」
 動揺を隠しきれずに翼が問いただすと、魔狭人はフッと鼻で笑った。
「死神だって万能じゃないんだ。地獄を千年以上もさまよっていた悪霊ともなれば、いくら優秀な死神のりんねくんでも、浄霊するには力が足りなかったんだろ」
「地獄を千年以上もさまよっていた悪霊?それは、かなり手強いな……」
 気丈だった翼の表情に翳りがさす。いてもたってもいられなくなり、桜は翼の背後から躍り出た。
「魔狭人くん。私に、一緒に地獄に来いって言ったよね。それで、私が地獄へ行けば、六道くんの助けになるの?」
 翼と魔狭人の視線が彼女に集まった。魔狭人は心の深淵を見透かすような眼差しで桜を見据えながら、
「ああ。というか、りんねくんを助けられるのは、お前しかいないんじゃないかと思う」
 やはり抑揚のない調子で告げた。とんでもない、とばかりに翼が首を振る。
「真宮さんを一人で危ない所へ行かせるわけにはいかない。俺も行くぞ」
「翼くん」
「心配なんだ。今の六道はあてにならないし、魔狭人ははなから信用できない。大体本当のことを話してるかすら定かじゃないんだ。こんな奴に、真宮さんを任せるわけにはいかないよ」
 桜が何かを言いかけるのと、魔狭人が盛大な溜息をついたのとはほぼ同時だった。
「言っておくけど、生身の人間二人も連れていくなんて僕はまっぴらごめんだ。そこまでお人好しじゃないんでね」
「何?真宮さんだけ連れていくって言うのか!?」
 歯軋りする翼に魔狭人はけだるげな一瞥を送り、
「どうせお前が来たって何の役にも立たないだろ、十文字。りんねくんが浄霊できなかった悪霊を、お前が祓えるとでも?」
 返す言葉が見付からず、押し黙った翼は悔しげに唇を噛んだ。あの死神との力量の差ははっきりとしている。わざわざ他人から言われなくとも、彼自身がいちばん良く知っていることだった。りんねの手に負えなかったのなら、彼は命すら落としかねない。それでも。
「──どうしても、真宮さんが行かなければいけないのか?」
想いを寄せる人を危険な場所に行かせるのはどうしても気が引けて、未練がましく問いかけた。往生際の悪さに悪魔は呆れ顔になる。すると桜が安心させるように微笑みを浮かべた。
「翼くん、心配してくれてありがとう。でも、私なら大丈夫だよ」
「真宮さん」
「私、地獄には一度行ったことがあるの。初めて行く場所じゃないから、大丈夫。それに──」
 彼女は長い睫毛を伏せる。そうしていると、つい抱き締めたくなるほどいじらしかった。
「いつも六道くんに助けられてばかりだから。今度は私が、六道くんを助けてあげたい」
 翼は華奢な肩に伸ばしかけた手を、握り締めた。目が据わっているところを見るに、どうやら決意は固いらしい。絶対に行かせたくなかった。けれど引き留めることは難しそうだ、と思った。ついていくことも、とめることもできない。途方もない無力感に、押しつぶされそうになる。
「何の助けにもなれなくて、ごめん。──お祓い屋とは名ばかりで、俺は本当に役立たずだ」
 好きな女ひとり守れないなんて。
 重々しい溜息をつきながら、ポケットに手を入れた。指先に触れたそれを強く握り締める。目を閉じて、ひたすらに念をこめた。
「真宮さん、手を貸して」
「え?どうして?」
「いいから」
 不思議に思いながらも、桜は言われた通りに片手を彼の前に差し出した。翼はその手を両手ではさむようにした。桜は手首に確かな感触を覚え、目線の高さまで持ち上げた。
「これって、数珠?」
 木製の小さな玉が寄せられた飾り。翼は固い表情を崩さずに頷いた。
「菩提子でつくった数珠だ。父さんが旅行の土産にくれた。霊験あらたかな菩提樹からとれたものらしい」
「菩提樹?」
「うん。悪霊を祓うほどの効果は期待できないけど、お守りくらいにはなるんじゃないかと……」
 自信をなくしたように、声がどんどん尻すぼみになっていった。
「──真宮さん。どうかくれぐれも、無理はしないと約束してくれ。あいつはどうも信用ならない。おかしなことを唆されても、絶対に聞いちゃ駄目だ」
 声の調子をぐっと落として、緊張のとけない顔で忠告する翼。桜は神妙に頷いてみせた。あの悪魔が信用に足る存在でないことは、何度か対面を果たしてきた彼女にとってはとうに分かりきっていることだった。
「おい、いつまで待たせる気だ?僕はそろそろ帰りたいんだが」
 苛立ちのにじむ声で中空に浮かぶ魔狭人が急かす。むっと眉を逆立てる翼に、桜はとり成すように微笑みかけた。
「翼くん、ありがとう。お守り、心強いよ」
「え?あ、ああ──」
 名残惜しそうに、翼は欄干に近づいていく桜の背を見つめた。どうしても行くのか。心苦しくて、つい手を伸ばしかけるが、ぐっとこらえた。ここに居てほしかった。自分の目の届くところ、手を伸ばせば触れられる場所に。だが無理に引き留めたところで、意味はない。他にりんねを救う手立てがないのなら、どのみち桜は行ってしまうだろう。そんな心の葛藤を見透かしてか、魔狭人に手を取られる寸前、桜はもう一度翼の方を振り返った。咄嗟のことでうまく表情を繕えない彼に、安心させるように笑いかけてくる。
「行ってくるね。待っていてね、翼くん」
「真宮さ──」
「必ず、六道くんを連れて帰ってくるから」
 ──こんな時でさえも。
彼女の頭の中を占めるのは、たった一人の存在。
 翼は震える拳をつよく握り締めた。今、悪魔がまさに彼女の手を引いて、霊道へいざなおうとしているところだった。
「真宮さんを、少しでも危ない目に遭わせてみろ。──お前も六道も、ただじゃおかないからな」
低く呟いた脅し文句。黒の両翼で空を切りながら、その声に振り返った魔狭人は口角を持ち上げた。
あの世とこの世の境界で渦を巻いていた入口は、桜の背をのみ込むと同時にしだいに小さくなってゆき、しまいにはうっすらとした螺旋の残像を翼の目に焼き付けて、消滅した。
手の届かないところへ送り出してしまうと、ますます憂いは募るばかりだった。
翼はしばらくの間、その場所から一歩も動けずに、茜色に染まりつつある現世の夕空を見つめていた。




To be continued


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