因果 ―前編―




 たとえ罪に罪を重ね、因果を更に深めることになろうとも、私達はもう愛し合うことを止められない。



「お前、本当の名を取り戻しちまったんだね。帰ったら八つ裂きにしてやろうと思ってたのに。ああ、忌ま忌ましいったらありゃしない」
 元の世界に帰っていく千尋を見送った後、文字通り決死の覚悟で油屋に戻ってきた私に、湯婆婆は憮然とした表情でそう言い捨てた。
「契約書は忽然と消えちまったよ。だからお前はもう自由だ。ここに留まる必要もない。どこにでも好きな所へ行きな」
 厄介なものを手で払い除けるような仕草をする湯婆婆を見詰めたまま、私はしばし呆然としていた。自由になった、長い間契約に縛られていたこの私が。俄かには信じられなかった。
「本当に、私はもう、自由なのですか。行きたい所へ行くことも、帰りたい所へ帰ることも――」
 私は喉元を押さえた。喜びのあまり声が震えている。永訣を覚悟したあの後ろ姿を思い出しながら、私は心が逸るのを感じていた。もう二度と逢えないと思っていたのに。まさかこんなにも早く、あの約束を果たす契機が訪れようとは――。
「ふん。川をなくしたお前が、一体どこに帰るっていうんだい。ああ…そうか、あの子の所か」
 湯婆婆は苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。その目に陰りが差したのを、私は不思議に思いつつも、気には留めなかった。それほどに有頂天になっていたのだ。
「……ひとつ、忠告しておいてやろう」
 厳粛な面持ちで、湯婆婆は告げた。
「ハク、お前は贖うべき罪を免れた。あたしに八つ裂きにされるはずだったのに、命拾いをした。でも覚えておくんだね、その業は、どこへ行こうがお前に付き纏う。因果はあの子にも及ぶかもしれないよ」
 私には、あの魔女の言っていることが理解出来なかった。私が逢いに行けば千尋が不幸を被るかもしれない――まったくもって、意味が分からない。
「それでも私は、千尋の所へ行きます」
 決然と告げた私を、湯婆婆は痛々しいものを見る眼差しで見詰めた。私はさすがに困惑した。何故そのような目で私を見る、一体私の何を憐れんでいるのだ……。
 浮かんだ疑問はしかし、すぐに意識の底深くへ沈んでいった。千尋に逢える喜びは、何にも勝るものだったから。

 トンネルを潜ると、何かに引き付けられるように、身体が勝手に浮遊した。森を抜け山を越え、見知らぬ街の見知らぬ家に辿り着く。そこには、私と瓜二つの少年がいた。
 否、瓜二つの他人などではなく、それは私自身だったのだ。
 少年は、千尋と同じ世界で、千尋と同じ人間として生まれ育った「私」。川が死に、魂だけになった私が不思議の街で酷使されていた間、転生して肉体を得たこの少年は、前世を忘れてこの街で生きていた。
 つまりこの少年は入れ物であり、私は中身なのだ。それを理解したうえで、私は少年の中に吸い込まれていった。帰っていった、と言った方が正しいかもしれない。少年は私で、私は少年、元々一つの存在でしかないのだから。
 こうして、二つの世界に分かたれていた心と身体は、一つに融合した。
 ――これで千尋に逢いに行ける。そう思うと感激に胸が打ち震えた。千尋と同じ時を生きる人間の男として生を受けたことが、奇跡だと思えた。
 それは決して奇跡などではなく、業と因果のもたらす不幸だったというのに。

 思いがけない形で、私は千尋との再会を果たした。
 私を産んだ母親が交通事故で死に、父親のいない家に私は一人きりになった。一人でも充分生きていくことは出来るが、周囲の目に映る私はまだ十二の少年でしかない。大人の庇護を受けねばならぬという。
 葬儀から数日後。見覚えのある男性が尋ねて来て、私は驚愕した。彼は自分こそが私の父親なのだと言う。今まで私達母子をほったらかしにしていた不始末を詫び、母親を亡くした私を憐れんだ。
「うちに来なさい。母親は違うけど、君には二歳年下の妹がいるんだ。きっと、君を兄と慕ってくれる」
 涙ぐみながら、彼は私の肩に手を置いた。間近に見るその顔は、記憶に新しい。つい先程まで聞いていたかのように、耳元には生々しい豚の鳴き声が残っている。まさか、そんなはずがない。私は唇を震わせながら、その子の名を聞いた。
「その子はね――千尋、というんだ」

 何処へ行こうが私には業が付き纏う。因果は千尋にも及ぶかもしれない。湯婆婆が言ったことの意味を、私はようやく理解した。
 荻野家に連れ帰られた私を見て、千尋の母親は驚愕した。夫の過去の不始末を、彼女は怒り悲しんだ。私の帰還は、この家に災厄を呼び寄せてしまったのだ。
 あんなにも逢いたいと焦がれた千尋は、唇を真一文字に引き結んで俯くばかりで、決して私を見ようとはしなかった。

「琥珀お兄ちゃん」
 荻野家に来て初めて、千尋が私を呼んだ。私を家に置くことを、千尋の母親が涙を呑んで妥協したのだ。
 これでずっと千尋の側にいられる、などと楽観できるはずもない。血縁上においても、戸籍上においても、千尋は私の実の妹になってしまったのだから。
「よろしくね、お兄ちゃん」
 明るい笑顔を浮かべながら握手を求めてきた千尋の目に、涙の跡があった。ごめんね、千尋。今ここで、抱きしめてやれたらどんなにいいだろう。
「こちらこそ、よろしく……千尋」
 千尋は、泣き笑うような顔をした。その表情に、私は贖罪の始まりを予感した。



 千尋が小学校を卒業し、私が中学校を卒業し、千尋が高校に入学する。まるで追いかけっこのように、私達の月日は過ぎていった。
 未だに千尋の母親と私は他人行儀なものの、荻野家は驚くほど平穏になっていた。しかし私は、心中に穏やかならざる思いを秘めている。
「お兄ちゃん」
 私を兄と呼び慕い、屈託なく笑う千尋。彼女が不思議の街での出来事を覚えているかは、分からない。聞いてしまえば、全てが崩れ落ちてしまうような気がしていた。それでもいつも、胸の内で私は自答している。
 ――ハクという名の少年がいたことを、千尋はもう、忘れてしまっただろうか。
「今日も女の人に呼び出されてたね。お兄ちゃんは、もてるね」
 悪戯っぽく目を細めながら、千尋は私を小突いた。さりげなく距離を置こうとすると、逆に身体をすり寄せてくる。また一段と柔らかく、女性らしくなった身体。こうして触れ合ってしまうと、心にざっと危うい波風が立つ。
「……そういう千尋も、よく男子と喋っているね。なるべく二人きりになったりしないように、気をつけなさい」
「大丈夫、大丈夫。みんないい人だもん。お兄ちゃん、結構心配性だね」
 千尋はくすくす笑う。私も曖昧に笑う。何気ないふりを装うのも、そろそろ限界に達しかけている。千尋にとって、二人きりになると最も危ない男は、もしかしたら、他ならぬ私自身なのかもしれない。

 大学進学を機に、私は一人暮らしを始めた。通学が楽になるからというのは建前、本音は私の心を掻き乱す千尋から遠ざかりたかったからだ。
 しかしそんな私の魂胆などまるで理解していない千尋は、学校帰りにわざわざ電車の駅を乗り過ごして、私の住まいまで足を運ぶようになった。そうまでして兄と慕ってくれることが嬉しくはあったが、私が千尋に抱く感情は決して、身内の親愛などという清らかなものではないのだ。もしも、私が妹に邪まな劣情を抱いていると知ったら、千尋はきっと私を軽蔑するだろう。私は、それが恐ろしくてならない。
「千尋。ここへはもう、来てはいけないよ」
 追い詰められた私はある日、千尋にそう告げた。高校が夏休みに入り、勉強を見てもらう名目で私のアパートに入り浸っていた千尋は、不意に古語辞典をめくる手を止める。私は、息が詰まった。彼女は、この上なく悲しそうな目で私を見ていたから。
「どうして?わたしがいると、邪魔?」
「そんなことはないよ。でも……」
 私はうろたえた。まさかここで本心を打ち明けるわけにもいかない。言い訳を考えているうちに、千尋の目にはどんどん涙が溜まっていく。
「お兄ちゃんはひどい。わたしの気持ち、何も分かってないじゃない」
 私は虚を衝かれて竦んだ。千尋の気持ち、とは一体どういうことだろう。
「ずっと待ってたのに。わたしは、お兄ちゃんが来た日から、ずっと……」
 その焦れた声の色に、私は何か確信めいたものを感じた。もしかすると、千尋は――。
「千尋、待って」
 私は、立ち上がりかけた千尋の手首を掴んで引き留めた。泣き濡れた彼女の目を見据えながら、言葉に魂を篭めるように言った。
「来週、この近くで納涼祭があるんだ」
 目をつむり、開ける。固唾を呑んで見守る千尋の姿がある。私は遂に、覚悟を決めた。
「もし千尋さえ良ければ。その日はここに……泊まってほしい」
 千尋ははっと息を止めた。私は彼女の手首を一度強く握り締めてから、放した。
「――待っているよ、千尋」
 いつも通りにうまく微笑むことが出来たかは、分からない。緊張の中に、しかし確かな達成感があった。賽は投げられたのだ。もう、後戻りは出来ない。
 もし来週、千尋がここを訪れてくれたなら、私は――
 私は彼女に、思いを告げる。兄の殻を破り捨て、ただ一人の男として。




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