菩提樹恋情


 
 薬草摘みから帰ってきた桔梗は、村はずれの菩提樹の樹の下に腰掛けている見馴れぬ法師の姿を見付け、気になったので近付いてみた。
「もし、そこのお方」
 声をかけると、錫杖で何やら熱心に地面に書き連ねていた法師が顔を上げた。
「これはこれは、お美しい巫女様」
 桔梗は目を瞬いた。まだ年若く、凛とした面差しの端麗な美丈夫だが、どうも好色そうな法師だ。
「拙僧に何か御用でしょうか」
 美貌の巫女を前にして、鼻の下がすっかり伸びきっている。
「いえ、ただこのような所で何をしていらっしゃるのかと、気になったもので……」
 桔梗は腰を屈めた。地面には丁寧な字で「般若心経」の一文が記されていた。
「写経をなさっていたのですか」
「ええ、まあ」
 法師は照れ臭そうに肩を竦めた。
「拙僧、修行僧の身でありながら、お恥ずかしいことに煩悩を滅却出来ずにおります。解脱の境地に至るにはまだまだ程遠い。ですからこうして、暇さえあれば、御仏の教えに心を傾けているのです」
 と言いながら、両手でしっかりと桔梗の手を握り締めている。
 菩提樹の樹から、葉がはらはらと降り落ちてきた。
「それにしてもお美しい方だ……。旅の途中にあなたのような女人に巡り逢おうとは、これはもう御仏のお導きに他なりませぬ」
 法師は熱っぽく言った。桔梗の手を真珠を扱うかのような手つきで撫で摩っている。
 また、葉が幾枚も落ちてきた。と思ったら、今度は小枝がぱらぱらと地面を打つ。
 桔梗は小さな溜息をついた。
 この法師、言葉と行動とが全く矛盾しているが、そんなことはお構いなしのようだ。
「御仏に仕える方々は、女人禁制とお聞き及びますが?」
 桔梗はやんわりと法師の手を押し返した。
「まあ……なまじ戒律が厳しすぎると、反動が起きてしまうものでして」
 法師は至極残念そうに肩をすぼめた。名残惜し気に桔梗を眺めながら、溜息をつく。
「致し方ない。あなたのことは諦めましょう。このような所で、もののけの恨みを買いたくはありませぬから……」
 と、頭上を振り仰いだ。桔梗も、やれやれと思いながら倣った。
 絹糸のような銀髪から犬耳を覗かせた、赤い装束の半妖が、みっしりと葉をつけた菩提樹の枝から怒りの様相で法師を見下ろしていた。
「ずっと、我々を見ていましたね?」
 法師が涼やかに尋ねると、
「なんでい。気付いてやがったのか、生臭坊主」
 半妖は、むしり取った葉やら手折った枝やらを、嫌がらせのように法師の頭上にばらばらと落とした。
 まるで子供と同じだな、と桔梗は嘆息した。
「やめないか、犬夜叉」
「止めるってのかよ、桔梗!この生臭坊主は、おまえをたぶらかしやがったんだぞっ」
 犬夜叉は火のような激しさで食ってかかった。桔梗は思わずどきりとした。
「犬のもののけよ。何故おまえがそこまで熱くなるのです?」
 法師が首を捻った。「もしやおまえ、こちらのお美しい巫女様に懸想しているのではあるまいな?」
「な、何を言いやがる――!」
 犬夜叉は憤然と地に降り立った。頬が酸漿のように赤みを帯びていた。
「あんまりくだらねえことぬかしやがると、ぶっ殺すぞ、この生臭坊主!」
「おお怖い。巫女様、あなたは世にも恐ろしい番犬を飼っておいでですなあ……」
「誰が番犬でいっ!」
 犬のように吠える犬夜叉に牙を剥かれても、法師は全く恐れた様子を見せず、むしろ幼稚な半妖をからかうのを楽しんでいるかのような余裕の表情である。
「番犬に噛み付かれては堪ったものではありません。名残惜しいが、巫女様、拙僧は早々に出立致そうと思います」
 桔梗は、本当に法師に噛み付きそうな犬夜叉を手で制し、聞いた。
「旅をなさっているとのことですが、ご出発なさる前に、うちでお斎をお出しいたしましょうか?」
「それは大変そそられるお申し出。ですがゆめゆめお邪魔して、番犬の夕餉になどなってはおれませぬのでね……」
「誰がてめえを食うかよ!」
 今や殺気丸出しの犬夜叉から、法師はくすくす笑いながら距離をとった。
「托鉢なら後ほど道中でいたすので、ご心配には及びませぬ」
「そうですか。なら良いのですが」
 法師は黄金の錫杖を打ち鳴らし、居住まいを正した。そうしていると、凛として気品ある高僧の風格があった。中身は別として。
「拙僧の名は、弥――いや」
 名乗りかけて肩を竦める。「敢えて名はお教えしますまい」
「何故ですか?」
 不思議がる桔梗に、法師は涼やかな笑みを振り撒いた。
「名もなき法師で良いのです。あなたのお心に残ることが出来るなら、それだけで充分だ」
 我慢の限界を越えた犬夜叉に追い立てられ、法師は笑いながら旅路についた。
「またいつか、お会い出来れば良いですね」
 去り際の法師の言葉に、苦虫を噛み潰したような顔をした半妖の傍らで、巫女は可笑しそうに笑った。




end.



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