花影




 目蓋の上に冷たいしずくが弾けて目が覚めた。
 昨夜降った時雨の名残だろうかと覚めやらぬ頭で彼は思ったが、違った。
 それは花びらの末から落ちた露だったようだ。
 重い目蓋を押し上げると、開けた視界に朧気なあかねの顔が入り込む。寝起きで掠れた声で名を呼べば、彼女の口元に穏やかな微笑みがともった。
「おはよう」
 白昼夢の中にいるような心地がして、彼は目蓋を手の甲で擦って数度瞬きをした。今度こそ冴えた瞳に明瞭に映り込んだあかねの表情は、今や悪戯っ子のそれに変わっている。
 朝一番に見るものがあかねの顔。これほどの幸福は他にないと彼は思う。
 感極まって草枕から半身を起こし、彼女を腕の中に招じ入れようとしたところで、今は女同士でしょうと笑いながら身をかわされた。自分の豊満な胸を見下ろしてらんまは溜息をつく。
 小雨程度でたやすく女身に転じてしまう我が身が呪わしい。聞こえるか聞こえないかの声で呪詛を吐いた。いますぐにでも湯を沸かしたかったが、時雨か朝露かによってしっとりと水気を帯びた木々では、満足に火も起こせない。
 武者修行の旅というのは往々にして不便なものである。煮え湯の欠かせぬ特異な体質をもつ彼にとっては殊更。
 仕方がないのでひとまずはこの姿で落ち着くことにして、らんまは喉の奥まで見えるほどの大欠伸をした。女の子なのにはしたないわね、と呆れ顔のあかねに、お決まりの科白で釘を刺すことも忘れずに。
「ところでおめー、さっきは何やってたんだ?」
 あかねが草の上に置いた一輪の花を見つめながら、らんまは訝しんだ。彼女は鉢巻を頭に巻きながら「おまじないよ」と鈴をころがすような声でいう。
「らんまは、夏の夜の夢って知ってる?」
「ああ?なんだそれ」
 胡座をかいてらんまは首を傾げる。格闘技以外のことには概して無知な彼に、そもそもそういった知識など期待していなかったようで、あかねは呆れた様子を見せない。
「そのお話の中にね、花のしずくを眠っている人の目蓋にかけるっていうおまじないがあるの」
「ほう」
「そうするとね、その人は、目が覚めたときに一番最初に見た人を好きになるんだって」
「はああ?」
「ロマンチックじゃない?」
「……」
「あれ?」
「……それでおめーは俺に試したってわけか?」
「うん。そしたら女の子のらんまもあたしを好きになるかなーって」
 らんまはこぼれんばかりに目を見開いた。
「ば、ばっかじゃねえの!」
「なによー。ばかじゃないもん」
 あかねは屈託ない笑顔を浮かべた。直球な言葉に赤面するらんまを、面白いものを見るように眺めている。
 らんまが女身でいる時は、今のように妙に余裕綽々とした態度でいるのが、彼は気に食わない。この身体では手の出しようがないからと高を括っているのだろう。男であろうと女であろうと、いくら引っ繰り返したところで中身は同じだというのに。
 煮え切らないらんまのことなどそっちのけで、あかねは何か思い出したように手をたたく。
「そう言えば、らんまが寝てる間に素敵な場所を見つけたの。連れてってあげるわ」
 言うが早いか、頭の後ろで鉢巻をきっちり締めて一笑したあかねは、鳥の速さで雑木林へ駆け出していく。
 出遅れたらんまは慌てて立ち上がり、功夫服の前ボタンを閉めながら、遠ざかっていく背を追った。
 

 端からかすかに白み始めた明けの空に、細々とたなびく東雲を遠望する。
 そして視線を戻した。前をゆく背を見据えて疾走しながら、らんまは思いを馳せる。こうして修行の旅路にあかねを伴うのも、これで何度目だろう。
 近い将来には二人で道場の看板を背負うことになるのだからと、彼女もまた彼に負けず劣らず、日々鍛錬修練に勤しんでいる。武道家として対等にありたいという心意気と、その武道への飽くなき追求心は見事なものだった。
 ともあれようやく、おさまるところにおさまった。
 ここまでの道程をあっという間と言うべきか、やっとと言うべきか。らんまにしてみればどちらも正であり、同時にどちらも否でもあるような気がしている。
 ふと、らんまは懐かしい記憶を紐解いてみた。
 出逢ってまもない頃の記憶である。
 別の男の方を向いて、まだ振り向かぬ彼女の背を見詰めながら、心密かに思い悩んだことがあった。意に沿わぬ婚姻によって、烏孫公主さながらに、いつかあかねに不幸を負わせることになってしまったらどうしようと。
 あの頃の自分が現在の自分達を知れば、きっとさぞかし驚くことだろう、とらんまは含み笑う。
 だがすぐに別の記憶が水を差した。
 呪泉洞で起きた惨事が頭をかすめる。
 自分のために身を擲ったあかねを、危うく永遠に失いかけたあの日だ。
 記憶の中で長く尾を引く自分の慟哭を、どこか遠くで聞きながら、らんまは思わず歯を食い縛っていた。
 ──いつもこうだ。
 幸福に溺れるのが怖い。
 いつかまた同じ目に遭わせてしまうのではないか。自分は都合のいい白昼夢の中にいるのではないか。当たり前の日常が眩しすぎて直視できなくなる。
 そのたびに彼の視線は、救いを求めるように彼女をさがし、さ迷う。
 雑木林を抜けたと同時に視界が広がり、あかねの背がかき消えた。
 らんまは立ち止まった。
 目前の光景に目を奪われた。


 見渡す限りの一面が、色彩鮮やかな花々で覆い尽くされていた。むせ返るほどの芳香が押し寄せた。
「らんまー!」
 摘み取った花を宙に散らして、あかねがたおやかに笑いかける。
 らんまは彫刻のように微動だにしなかった。
 かつて中国で見た掛軸の絵柄を思い出していた。
 嫦娥奔月だったか仕女游春だったか。あるいは平安富貴だったか、吉祥如意だったか。
 いや──あれは天女散花だ。
 思い至ったらんまは花をかき分け、一目散に駆け出していた。
 驚いた顔をして反射的に逃げようとしたあかねの、華奢な手首をつかんで引き寄せる。
「つかまえた」
 少し息を切らしながら、らんまは口の端に笑みをのぼらせた。虚を衝かれた顔をしているあかねを抱き締め、折り重なって咲き乱れる花の絨毯に倒れ込む。
「どうしたのよ、いきなり」
 目を白黒させるあかねは、昇り始めた朝日の逆光が眩しく、覆い被さったらんまの表情をはっきりと窺うことはできない。
「だっておめー、目ぇ離すとすぐいなくなりそうだから」
「え?あたしが?」
「あかねの馬鹿。そんなに簡単に離れていくなよ、馬鹿」
 小鳥のような声が微かに震える。あかねは何かを察したように口を閉ざした。暫しの間、朝日を背負って俯くらんまを見上げ、そして不意に。
 天女さながらの微笑を浮かべた。
 手を伸ばして、腕に抱いたらんまの頭を胸に寄せる。
 母が子をあやす手つきで撫でてやり、子守唄のようにそっと告げた。
「ばかね。あたしはどこにも行かないわよ」
 ああ。今の自分が女の姿で本当によかった。
 耳に心地良い心音を聴きながら、らんまは思った。
 微かに震える肩に、降り掛かる花影はどこまでも優しい。





end.

2012 「らんあ祭り」投稿作品

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