行き触れ  - Chapter 9 -



 魔狭人から事の顛末を聞き終えた魂子は、固い面持ちで嘆息した。
「情死者の霊、ね。本当に厄介な案件だわ。りんねに憑いちゃってるから、うかつに鎌を使うわけにもいかないし」
 恋のもつれがからんだ案件は、基本的に一筋縄ではいかないことが多い。そこに必ず霊本人以外の誰かがかかわってくるからだ。相手が今も生きていれば話は早いが、今回のようにすでに相手も亡くなっている場合は、まずあらかた人捜しに難儀する。一流の死神ですら、こうした案件には頭を悩ませられるものだ。
 それにしても今回の案件は、とりわけ複雑だった。
──情死者。つまり何らかの理由で心中せざるを得なかった男女は、自分達の恋路をはばむ世間に深く失望し、来世での縁を願いながらみずからの命を絶つ。
しかし、現実はそう甘くない。
自殺はあの世における大罪。憐れな魂は輪廻の輪ではなく、地獄へと送られる。彼等は転生することを未来永劫許されず、永遠に地の底をさまよい続けることになる。前世で描いた夢は、もはや砂上の楼閣。死んでもなお報われない境遇に、ある者は発狂し、ある者は逃走を試みるという。いずれも地獄を支配する悪魔と鬼が力でもって制する。だがその抑圧を免れて、千年もの間この地獄をさすらったというのが、くだんの悪霊だ。
「家でも学校でも教えられたよ。あの悪霊にだけは、かかわるなって。邪気に完全に呑まれていて、堕ちるところまで堕ちていて、もう誰の手にも負えないらしい」
──そんな悪霊を、果たして「慈悲深い」死神は、どう捌くのかな。
 挑発するように悪魔は囁く。
「たとえりんねくんから引き離せたとしても、あの悪霊の末路は決まっている。救うことなんて、できないんだ。罪人である以上、地獄【ここ】からは出られやしないんだから」
 水を打ったような沈黙。魂子は悪魔から目を逸らさない。
「……死神は」
 ややあって、静かな声で彼女が呟いた。
「一度救うと決めた霊を、こんな所へ置き去りにはしないわ」
 顔を上げた桜は、毅然と言い返す魂子に尊敬の眼差しを向けた。その横顔は以前、魔狭人の策謀によって地獄に連れ去られた霊を、みずからの危険を顧みずに追って行った時のりんねを偲ばせた。やはり、血は争えないものだと思う。
「へえ、地獄の掟に干渉するってことか。怖いもの知らずな一家だな」
 魔狭人が片頬を歪めると、魂子も同じように口角を持ち上げてみせた。
「言っておくけどね、坊や。こう見えても私は、掟破りの常習犯なのよ?」
 辺りが緊迫した空気に包まれているにもかかわらず、桜は頬が緩むのを抑えられなかった。魂子の「掟破り」の過去を知っているだけに、気持ちが和んだ。情にあつい死神が、頼もしかった。
 魂子が魔狭人を押し退け、金のドアノブを掴む。桜のほうをちらりと一瞥し、準備はいい?というように一度頷くと、一気に開け放った。
待ち構えていたかのように、中からこごった邪気が一気にあふれ出した。すかさず魂子が鎌を大きくふるって一薙ぎすると、邪気は彼女を避けるように霧散し、ほの暗かった部屋はしだいに明かりを取り戻し始めた。
 そして視界が開けると、桜は思わず息をのんだ。真っ先に彼女の視線を奪ったのは、白い絨毯の上にぐったりとふせって微動だにしない、りんねの姿だった。魂子が足早に駆け寄っていくと、桜もおぼつかない足取りでその後に続く。魂子はしゃがんでりんねの顔を覗き込み、ほっとしたようにひとたび頷いた。
「大丈夫。気を失ってるだけだわ」
 よかった──。
 安堵のあまり、意識が遠のきかけた。桜は数歩よろけて、壁に手を付く。
「邪気にあたったのね、きっと。これだけの邪気を身体に溜め込まれたんじゃ、仕方ないわ」
 震える足を叱咤して近付いていく。りんねの側に膝を付いて、おそるおそる顔を覗き込んだ。彼が苦しそうに眉根を寄せ、額に汗を浮かばせていた。長い睫毛が小刻みに震えている。薄く開いた唇からは時おりうめき声すらこぼれ落ちた。きっと悪夢を見ているのだろう。
六道くん、苦しいの?
心配するあまり、桜は声が出ないことを忘れて呼びかけていた。六道くん、六道くん。少し汗ばんだりんねの手を取って、つよく握り締める。つらいの?大丈夫?祈るように、握った手を額に押し当てた。どうか、どうか六道くんが一刻も早くこのつらさから開放されますように──。
しばらくそうしていると、りんねに変化の兆しがあらわれた。眉間の皺はしだいにやわらぎ、乱れていた呼吸が落ち着きはじめ、こわばっていた四肢は弛緩した。まるでそこに桜がいることが分かっているかのように、表情まで穏やかになる。
「少し良くなったみたいね。よかった──」
 魂子がほっと溜息をつく。そして袂に手を入れたかと思うと、桜の手をとり、袂から取り出した赤い糸玉を置いた。
「悪霊が大人しいうちに、これをりんねの小指に括りつけてくれないかしら」
 桜は言われた通りに、糸を引き出してりんねの小指に結んだ。
「それはね、見ての通り、赤い糸なのよ。でも、ただの糸じゃない。運命の赤い糸の話って、現世にもあるじゃない?これも似たようなものなの。前世で縁のあった人と結び付けてくれる、とっておきの死神道具なのよ」
 魂子の囁きに、桜は頷く。人捜しの手間が省けて画期的だ。
「この糸が、りんねにとり憑いた悪霊と縁のあった人のところへ、導いてくれるはずよ。本当はその人も地獄に送られたはずなんだけど、どうもここにはいないみたいだから」
 何かの手違いでその人は別の所へ行ってしまったのだろう。
 ──千年前に愛した人。これほどの時を経て、その人は一体どのような姿になっているんだろう、と桜は思った。前世で人間だったひとが必ずしも来世で再び人間に転生するとは限らない。そのことを彼女は知っている。それに転生した人は前世の記憶を持たない。たとえ人間に生まれ変わっていたとしても、その人はあの悪霊のことを何一つ覚えていないのだ。──心をわかち合った二人が、一人は千年の時を孤独にさすらい、もう一人は全てを忘れて転生を繰りかえす。もしそれが千年越しの真実だとしたら、あまりにも哀しい。
 魂子がおもむろに立ち上がった。赤い糸が導くところへ向かうつもりなのだ。桜もついて行こうと思い、何気なくりんねの手を離した。
 すると、その手が離れた桜の手を追い求めるようにして、握りかえしてきた。
 桜は驚いて振り返り、りんねの顔をまじまじと見つめた。目が覚めたのかもしれない。そう思ったが、その目は固く閉じられたままだった。
すぐ戻ってくるよ、と、桜は唇の動きだけで伝えた。
 りんねの手から力が抜けて、絨毯の上にぱたりと落ちる。それを見届けると、桜は腰を上げた。魂子に続いて部屋を後にした。
 彼女の背中越しで、眠り続けるりんねの顔が切なくゆがんだ。



 
To be continued


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