remnant  act.1

 


 肩口に掛かった雨露をハンカチで拭き取ると、あかねは眩しいわけでもないのに、手庇を作って空を見上げた。
 冷たい雨は槍のように降り頻り、ほの暗い大地を打っている。鈍色の雲が天空を厚く覆っている。天道からのびる一筋の明かりすらも零さない、というように。
 喪に服しているみたい、とあかねは思った。それがこの近辺の陰鬱な雰囲気に益々拍車を掛けているようで、物寂しく思った。湿ったハンカチを握り締めたまま、彼女は暫し感傷に浸る。
 かつてないほど厳然とした空気に包まれた天道家。訪れた参列者たちは皆、冷たい雨に打たれながら、頭を深く垂れている。寒さと寂寞とに身震いし、啜り泣きを堪えながら、故人に黙祷を捧げている。
 ただ一人を除いては。
(どうしてそんな目であたしを見るんですか)
 あかねは黒いスカートの裾を小刻みに震える手で握り締めた。釘付けにされた視線に戸惑い、顔を背けて固く瞑目する。しばらくそうしていてもなお、見詰められているのが分かる。
 観念したようにうっすら目を開けた。傷心し、捨てられた子犬のような目をして、その人物はゆっくりとあかねに手招きをした。その様子は、救いを求めて縋るようでもあった。
 引力のようなものを感じながらも、あかねは踏みとどまる。失意したように肩を落とし、彼は俯いた。
 あかねは罪悪感を覚えた。それでも、行ってはいけないという気がしていた。最愛の人を喪った彼は今、危ない綱を渡ろうとしている。そして、自分がその火付け役になってしまうかもしれない。直感がそう訴えかけていた。
 意識を完全に奪われていたため、背後に誰かが立ったことに、あかねは気が付かなかった。
「あかね?」
 小さく悲鳴を上げ、一歩退きながら後ろを振り向く。咄嗟に腕が伸びてきて、あかねの二の腕を掴んで寄せた。喪服を纏った乱馬が眉根を寄せて、彼女を見下ろしている。
「ら、乱馬だったの。びっくりした」
 上擦った声で言いながらも、内心胸を撫でおろした彼女に、乱馬は怪訝な顔をする。
「びっくりした、じゃねえよ。この雨の中傘差さねえで外出るやつがあるかよ。この濡れ鼠」
 ぶっきらぼうに言い捨て、手に持っていたタオルを広げてあかねの頭を包み込むと、わしゃわしゃと気遣いなく拭き始めた。髪をもみくちゃにされながら、あかねが抗議の声を上げる。
「何すんのよお」
「うっせー。これくらい我慢しろ」
 髪を拭き終えた乱馬は、掌をあかねの白磁の頬に添えた。二人の唇から同時に「冷たっ」と悲鳴に似た声が上がる。乱馬が眉を下げる。
「風邪ひくぞ、お前」
「乱馬こそ、手こんなに冷たくなってるじゃない」
 頬に宛てがわれた手に、あかねは自分の手を重ねた。冷気にあてられた乱馬の手は氷のようにひやりとしている。が、その感触に彼女は言い知れない安堵を覚えている。
 乱馬は声の調子を落として、訊いた。
「あかね、お前大丈夫か?さっきからボーッとしてるぞ」
「──うん」
「本当か?少し休んだほうがいいんじゃないか?ここ数日、忙しくてまともに寝てないだろ」
 あかねの顔を覗き込みながら、乱馬が念を押すように言う。あかねは首を横に振った。彼の気遣いは有り難かったが、今はその気遣いに甘えるわけにはいかない。
「最期のお別れだから。ちゃんと見届けたいの」
 きっぱりとした物言いに、それ以上休養を強要することは憚られたのか、乱馬は渋々ながらも「そうか」と呟いた。暫しの間を置いてから、あかねの肩に手を置く。
「でも無理するなよ。お前が体調崩したら、きっとかすみさんも悲しむから」
 一瞬、彼の口から零れ出た故人の名に心を衝かれた思いがしながらも、了解の意味を込めてあかねは気丈に頷いた。乱馬も神妙な顔をして、ゆっくりと頷いてみせる。
 それから、小さく手を振りながらどこか名残惜しげに背を向けて、乱馬は再び黒幕の中へと消えていった。寄り添っていてもらいたいたかった、とあかねは心ひそかに思った。しかし、貴重な男手である乱馬に無理は言えない。
 乱馬に向かって振った手を握り締めて、あかねは後ろを恐々と振り返った。
 槍のような雨だけが、彼女の視界を過ぎった。



 白い花に囲まれた遺影の中で、天道かすみが観音菩薩のような慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。
 成績の優良さにも拘らず大学進学を諦め、家族のために家庭に留まることを決意した時、彼女はまだ十六の少女だった。母のいない妹達が不憫だからと、夢を諦めてでも自身が母親がわりになることを選んだ。そんな心優しい少女だった。
 恨み言など決して口にせず、いつも彼女は幸福そうに笑っていた。家族が愛しく、これほどの幸福は望めないとでも言うように。
 虚しくはなかったんだろうか、と今更になってあかねは思う。見馴れてしまった優しく懐かしく、今となっては遠い慈母の笑顔を見上げながら。
 奔放に生きる家族達を間近で見ていて、不公平だと不満を抱いたことはなかったんだろうか。家庭という檻から逃げ出して、羽を伸ばして生きてみたいと願ったことはなかったんだろうか。
 今となってはもう、聞くこともできない。
 近所の商店街に買い物にでも行くかのような気軽さで、彼女は死途の道へ足を踏み入れてしまったから。



 焼却炉の中で慕っていた姉が燃えていく。
 燃焼音と呪詛のように繰り返される経を、あかねは呆然と立ち竦みながら聴いている。何度も名を呼ばれたが、反応を返すことが出来なかった。肩を抱いて悲しみに寄り添ってくれる、乱馬の確かな温もりだけが救いだった。
 いつの間にか、火葬場には誰もいない。乱馬は、茫然としている彼女を暫らくそっとしておくことに決めだようだ。
 傍らにあったベンチに崩れるように腰を下ろすと、あかねは自分で自分を抱きしめた。お骨を見なくてよかったと安堵した。
 辺りに漂う物体の焼ける匂いに息が詰まり、途端に溢れた涙が零れ落ちた。
 普段は強がりの彼女は、一度泣き始めると堰を切ったように涙が止まらない。でも、時にはそうして流れるままにしたほうがいいこともある。無理に堰き止めることなどない。今、ここには誰もいないのだから。
 一頻り涙を流した後、鼻を啜りながら俯く彼女の視界に、ふと黒い靴の先が入り込んだ。
「──あかねちゃん?」
 密やかな声に、あかねは瞠目して弾かれたように顔を上げた。
 先程彼女を見詰めていた人物がそこに居た。姉を想っていた男性、そしてあかね自身の初恋を捧げた人。
 小乃東風は身を屈めてあかねの顔を見下ろしていた。表情には翳りが見て取れた。
「泣いてたの?」
 静かに訊く東風に、あかねは慌てて首を横に振る。東風は困ったように微笑し、曲げた人差し指の第一関節で彼女の目の下をそっとなぞった。見え透いた嘘を明かす滴が彼女の長い睫毛を潤していた。
「泣いてたよね」
「……」
「隠さなくてもいいよ。つらいのは僕も一緒」
 何もかも諦め切ったような表情で、東風が腕を広げて彼女を抱き締めようとした。あかねは目を瞠り、彼の腕を避けるようにして素早く立ち上がった。傷心の色が再び東風の瞳に浮かんだ。
「あ、あの……すみません」
 後退り、走り去ろうとしたあかねの手首を、東風が咄嗟に掴んだ。接骨を施す手は大きく力強い。かつて憧憬したその手の感触に、思わず立ち止まったあかねの耳を、哀しみを湛えた声が過ぎった。
「行かないで、あかねちゃん」
 あかねは目を丸めて振り返った。必死の様相で彼女を見詰める東風の姿があった。あかねは眩暈がしそうになった。彼女の心の中で何かの均衡が崩れ掛ける。
「……東風先生…?」
 狼狽したあかねがか細い声を出すと、東風は大袈裟に肩を揺らした。咄嗟に手を離して、弾かれたように彼女と間を取る。
「あはは……何をやってるんだろうね、僕は…」
 無理に笑うその姿が、あかねには痛ましかった。欠落したものがあまりにも大き過ぎて、この人は途方に暮れている。埋め合わせるものを探し求めている。
「東風先生。笑いたくない時には、無理に笑わなくていいんですよ」
 迷いながらも、あかねはそう伝えた。東風の精一杯の笑みが顔から砂のように零れ落ちていく。
「自分を繕ったりしなくていいんです。ありのままの先生でいてください。……きっとおねえちゃんも、それを望んでると思うから」
 そう言ってやることが本当に正しかったのかは、あかねには分からなかった。しかしそれは紛れも無く、心からの言葉だった。かつては淡い想いを抱いた小乃東風という男性の本質を、彼女なりに見越した上での言葉だった。
 東風は衝撃を受けた表情で暫らく凍り付いていたが、やがて微笑みを浮かべた。今度は無理を強いた様な笑いではなく、心から湧き出た本物の微笑だった。
「……ありがとう。あかねちゃん」
 



To be continued

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