命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 13 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 13


 鳥居に駆け寄ろうとしたかごめは、その言葉に足を竦ませた。
「あの狛犬達が戻ってくる前に、早く──!」
 子狐だったあの頃よりも遥かに深い声が辺りに響いた。
 脱出を促す妖狐の言葉とは裏腹に、かごめはそこから動くことができない。
 彼女は、もどかしげに自分を見詰めている七宝と、視線を交えた。
「……七宝ちゃん」
 そして唇を噛みながら一度俯き、意を決した様子で再び顔を上げる。
「せっかく来てくれたのにごめんね。でも私、ここを出ないわ」
 かごめは冷静を装った声色で言い切った。
 鳥居の結界の向こう側で、七宝が泣きそうな顔をしながら、首をちぎれんばかりに振る。
「だめじゃ、かごめ。ここにいてはいずれ犬夜叉に魂を食われてしまうぞ!」
 かごめの顔がさっと青ざめた。しかし、頑なな表情は変わらない。
 堰切ったように七宝は捲し立てた。
「犬夜叉は変わってしまったんじゃ。あれはもうおらたちの知る犬夜叉ではない。おらたちの仲間だった犬夜叉は、もういないんじゃ!」
「──違うっ、犬夜叉は犬夜叉よ、何も変わってなんかいないわ!」
 かごめが、必死の思いで声を張り上げた。
 七宝がびくっと身を竦ませて、目を瞠る。
「かごめ…」
「犬夜叉は、犬夜叉のままよ。優しくて、不器用で、誰よりも真っ直ぐで…」
 かごめは息を詰まらせ、乾いた石畳に涙をこぼした。震える身体を自分で抱きしめながら。
「……約束したのに。側にいるって、約束したのに…こんなに長い間、私は犬夜叉を独りぼっちにしてた」
 嗚咽するかごめを成すすべもなく見詰めながら、七宝は言葉が出なかった。

 かごめが呵責を抱くのは間違っている。あの時代に、彼女は留まりたくても留まることができなかったのだから。
 むしろ咎を負うべきは、五百年の時を生きながらえながらも、犬夜叉に何もしてやれなかった自分に他ならない。

 旅の終焉から百年が経ったあの頃、七宝は大陸に渡り、修行に明け暮れていたところだった。
 時に妖艶な白狐の娘達と気紛れな児戯に耽り、鍛錬と艷福とを交互に重ねて気儘に過ごしている間、故郷に残してきた仲間を暫し忘れてしまっていた。
 ──百年の間に、まずはあの老いた巫女が先に黄泉路を下った。妖にとっては瞬きの間の時間に、法師と退治屋の姉弟が次々と老いてゆき、やがて巫女と同じ路へ旅立っていった。
 あの時、一人残されたあの半妖のことを、なぜもっと慮ってやらなかったのだろう。
『けっ、俺は一人になってめそめそ泣いてるようなやわな男じゃねえ。おめーももうガキじゃねえんだ、どこへでも好きなところへ行っちまえ』
 そんな臍曲がりなあの男は、けれど誰より強いからと、後ろ髪引かれる思いなど知る由も無く、七宝は思い出の地を後にした。
 あの地を離れたのは、修行のためだけでなく、かつての仲間達をうしなった悲愴から逃避したかったからでもあった。
 それを共に分かち合うには、犬夜叉も七宝自身も、まだ幼すぎた。

 自分が犬夜叉の孤独に寄り添っていてやれば、こんなことにはならなかったんだろうか。

 結界の奥に閉じ籠った犬夜叉を訪れ、結界に阻まれて失意するたび、何度も何度も同じことを七宝は思った。
 そしてこの結界を破り、犬夜叉の横面を張って目覚めさせるためだけに、世が戦乱に見舞われた数百年の時を再び修行に費やした。
 尾が三つに割れ、妖力は遥かに増したが、しかし結界を破ることは叶わなかった。
 そうしているうちに時は満ち、宿命の少女は世へ生まれ落ちた。
 
「……かごめ。おらは、かごめをずっと見とったぞ」
 不意に、親が子を慈しむような眼差しで、七宝はかごめを見遣った。
 腫らした目で、かごめは彼を見つめる。
「赤子の頃から見とった。…狐火で守りながら」
「──狐火?」
「犬夜叉達が手出しできんようにな。もし連れ去られでもしたら、かごめは井戸を通り抜けることが出来なかったかもしれんじゃろ。そうなったら過去が変わってしまう」
 修行を積んだ甲斐があり、犬夜叉やあの狛犬達は、狐火に守られたかごめに手出しできなかった。そうして無事、彼女は定められた通りにあの骨喰いの井戸を潜り、遥かな時を渡って、犬夜叉に巡り会った。
 時に現代を訪れる犬夜叉に匂いを嗅ぎ付けられないか、七宝はいつも冷や冷やしていた。そのため、最初に犬夜叉が井戸から姿を現した時以来、入念に匂い消しの術をかけることが欠かせぬ日課となった。
「かごめが井戸を通れなくなってから、何度も姿を現そうと思ったんじゃ。じゃが気休めにしかならんかと思うと、どうにもできんかった…」
 犬夜叉を想って侘びしくたたずむ彼女の手を、何度握り締めてやりたいと思ったことか。
 犬夜叉に逢わせてやりたいのに、と心が咎めた。しかしその反面、長きにわたる魂の消費によって心をうしなってしまった犬夜叉は、彼女にとってはあまりにも脅威だった。
 このまま狐火で守り続けていてやるのがいいのか。逢わせないままでいいのか。どうすることが犬夜叉とかごめにとって最善なのか。
 思い悩んでいるうちにかごめは二十歳の誕生日を迎えた。そして、彼女が子供を逸脱したその日、守りの狐火の効力は完全に消え去った。
 そのことを失念していた七宝が血相を変えて駆け付けた時には、既に彼女は結界の奥へ連れ去られてしまった後だった。

「そっか…七宝ちゃんが、私を守ってくれていたんだ。知らなかった……」
 静かな声に、七宝は小さくうなずく。
「ずっとかごめを見守ってきたんじゃ。このまま、見す見す死なせるわけにはいかん」
「……」
「犬夜叉を信じたい気持ちはわかる。じゃが、奴が仮にまともな心を取り戻していたとしても、あの狛犬達は何を考えているか分からんぞ。──おらが思うに、奴等は犬夜叉に、強い魂を食わせたいんじゃ」
「強い魂…だから巫女の私が連れてこられたってこと?」
 残酷なようだが、それが真実だという確信が七宝にはあった。少なくともあの狛犬達は、かごめを「犬神」へ捧げる供物としか見ていないだろう。
「──…私の魂をあげれば、犬夜叉は元気になれるのかしら」
 聞き捨てならない言葉だった。七宝は、眉を逆立てた。
「かごめ。そんなこと、冗談でも言うな」
 かごめは、狼狽した様子だった。
「ごめん、七宝ちゃん。でも私──犬夜叉が本当に私の魂をほしいなら、あげてもいい。それで犬夜叉を助けられるなら惜しくない」
「犬夜叉のために死ぬというのか?それで、犬夜叉は報われると思うか?」
 怒気を抑え込んだ静か過ぎる声に、かごめは挫けそうになるのを耐えた。
「……それでも、犬夜叉のためならなんだってするわ。犬夜叉のことが好きだから…」
「捨て身になることが、愛か?」
 かごめはじりじりと後ずさった。
 七宝の身を覆う水のように青い狐火が、赤くなっていく。
「ごめん、七宝ちゃん……ごめんね」
 涙ながらにかごめは言った。守ってもらった命を棒に振ろうとする愚かな自分への怒りに、烈火を滾らせる妖狐に向けて。
「約束したのよ、犬夜叉に。──もうどこにも行かないって」
 一瞬、かごめは微笑みを浮かべてみせた。
 七宝は怒りを忘れて、思わずその微笑に目を奪われた。
 彼女の笑顔を最後に見たのはいつだっただろう。
「かごめ、」
 そして、彼女はくるりと踵を返した。あっという間もなく、髪をなびかせて、屋敷の玄関口へと走り去っていく。
 七宝が伸ばした手は、結界に触れて嫌な音を立てて焼け付いた。
「畜生っ」
 七宝は迫り来る無力感に耐え切れずに、拳で石段を殴った。
 何度も何度も、手に感覚がなくなるまで。



To be continued 

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