行き触れ  - Chapter 6 -


 桜を手にかけようとした衝撃から立ち直れず、りんねは絶望に打ちひしがれていた。
 誰よりも傷付けたくなかった人を、この手で危機におとしいれてしまった。不甲斐ない自分を、どれほど責めても責めきれない。
あと一瞬、悪魔が彼女を連れ出すのが遅かったなら──。さまよえる霊を救うためだけに存在するはずのこの鎌が、彼女の生き血を吸っていたかもしれない。血飛沫を上げて崩れ落ちる桜の姿をほんの一瞬頭の中で描いただけで、恐怖のあまり大声で叫び出しそうになる。そんなことは、決して、起きてはならない。彼女を生命の危険に晒すくらいなら、いっそのこと、自分が消えてしまいたい──。そんなことを切実に思った。
 心にわだかまる呵責の念とは裏腹に、邪気によってもたらされた破壊の衝動はいまだ留まるところを知らない。悪霊が激情をふるっているのが、依代であるりんねには痛いほど伝わってきている。全身が鉛のように重く、四肢の自由が利かない。身体が自分のものであって、そうでないような、気味の悪い感覚。
 今、誰かがその扉を開けて姿を現したなら、彼はきっとまた鎌を振り上げるだろう。例えそれが、あの真宮桜であったとしても。
 震える手で頭を抱える。血が滲むほど強く唇を噛みながら、願うことはただ一つだった。どうかもう、無事に現世へ帰っていてくれ。一生分の運を使い果たしてもいいから、どうか真宮桜を、自分から遠ざけてくれ。それでもこの祈りが届かず、再び彼女が目の前に現れたなら、その時には、
この舌を噛み切ってでも、自分を止めなければ。
 ──文字通り決死の覚悟をきめるりんねの中で、悪霊が冷たくせせら笑った。
「相手を手にかけるより、自分が死ぬことを選ぶのか。それほどまでに、あの少女を傷付けることが恐ろしいか」
「こんなことをしていても、あなたはここから永遠に動けないままだ。何故、罪に罪を、重ねようとするのですか」
 より一層増した邪気に、息がつまりそうだった。むせ返りながらも、りんねは自分に巣食う闇にうったえかける。
「何故?世を恨んでいるからだ。私を貶めた者達に地獄を見せたいからだ。私の抱いた苦しみを、血を流す痛みを、世に知らしめてやりたい。そうしなければ、気が済まないのだ」
「──ですが、あなたを死に追いやったかもしれない人間達は、もう現世【あちら】にはいない。あなたが亡くなった時から、少なくとも、千年の時が流れてしまったのだから」
邪念を鎮めるつもりが、かえって助長してしまったらしい。悪霊の邪気が一層満ちた。
「それがどうした。この私が罪人の烙印を押されて地獄へ堕ちたというのに、あの者たちはどうだ。栄華を誇り、子を残し、老いて安らかに死んでいった。どれほどの時が経とうと、奴らは輪廻を繰り返す。しぶとく黄泉がえり、何度でも現世へ流れ着くのだ。私は地獄【ここ】で流れを塞き止められ、動けぬというのに──!」
 濁流が唸るようなはげしい耳鳴りがした。頭が割れるような痛みに目が回る。天地がひっくり返る。りんねは頭を抱えて床に突っ伏した。歯軋りと共に苦悶の声がこぼれ落ちた。
「やめろっ──」
「お前も、道連れだ。この私の恨みが晴れぬうちは、お前は私からは逃れられまい。諦めて私の意に従うのだ。生きとし生ける者共を、殺せ。輪廻の理【ことわり】など、その鎌で引き裂いてしまえ。さもなくば、お前は永遠に、現世へは戻れないだろう」
 ああ、真宮桜──。
こんな時にも、脳裏に浮かぶ存在はただ一人。心をかき乱すのも、鎮めてくれるのも、同じ存在なのだ。あふれる自信を失わせるのも、失った自信を再びみなぎらせてくれるのも、彼女だけ。こころの中にあの少女がいる限り、どれほど逆境にあおられようとも、何度でも立ち向かうことができる。
「俺はあなたには、従わない。あなたはすでに一度、人を殺めてしまった、──あなた自身を。これ以上、罪を重ねてはいけない」
意識が徐々に薄れていくのを感じた。
──魂は、輪廻という清流に乗って終わりなき旅をしている。
いつか祖母の魂子が、彼にそう教えてくれたことがあった。
 その流れは、ほんとうは穏やかなものなのだが、時として荒ぶる濁流となってしまうことがある。黄泉を下る前に残してきた強い感情が、大岩となり、水が塞き止められてしまった時だ。
 その淀んだ流れから先に進めずに、行き止まってしまった魂を救済する者。未練という大きな岩をどかしてやり、再びとどこおりのない流れを促してやる責務をになう者──。
 それが「死神」なのだと、祖母は言っていた。
「……必ず、救ってみせる」
 意識が途切れる間際、りんねは悪霊に向けて呟く。
死神としての矜持をかけて、──あなたを輪廻へ還してさしあげよう。
 それは同時に、彼自身の「迷い」に打ち克つ決意でもあった。

 



To be continued


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