夢隠し

千夜


「千尋さま」
 眠りの淵から彼女を呼び覚ます声は、水辺に留まる小鳥のさえずりのように愛らしい。
 目を擦りながら、千尋はベッドからゆっくりと上体を起こす。やんわりと手首を掴まれ、見上げると目元の涼やかな美少年が微笑んでいた。鮮やかな青の着物に橙色で練り上げた袴。正体を聞けば、川蝉の化身だというその美少年は、せがむように彼女の手を引いてくる。
「一緒にまいりましょう」
 どこへと訊ねることはしない。夢見心地のまま、千尋は美少年に連れられて星の散る夜空を渡っていく。
 ──前にもこうして、誰かと空を飛んだことがあるような気がする。
 夜風に髪をなびかせながらぼんやりとそんなことを思う千尋だが、穏やかな美少年の声に引き戻された。
「そろそろ、手を離しますよ」
 言うが早いか、美少年は繋いでいた千尋の手をぱっと解いた。空を飛ぶことのできない千尋の身体は、みるみるうちに急降下していく。雲やら霧やら霞やらの中を通り抜け、しっとりと水気をまとった身体を震わせながら、落下の衝撃を覚悟して千尋は固く目を閉じた。
「ようこそ」
 声がささやかれたと同時に、ふわりと身体が軽くなった。誰かに抱き留められている。恐る恐る目を開けてみると、翡翠の双眸が千尋の顔を覗き込んでいた。先程の川蝉の化身とはまた別の美少年が、陶器のように白いおもてに申し訳なさそうな表情を浮かべている。
「寒い思いをさせてしまったね」
 歯ががちがちと震えて噛み合わない。情けなく思いながら千尋が顔を逸らすと、
「すぐに温めてあげる」
 美少年は千尋の背中に手を回して、自分の胸に掻き抱いた。
 どれほどそうしていただろう。千尋は彼の肩口に顔を埋め、身体の震えがおさまってきたのを感じている。美少年は千尋のおろした髪を優しい手つきで撫でていたが、思い出したようにふと耳元にささやいてきた。
「あの時はひとつに結んでいたね」
「あの時?」
「うん。でも、今は私が結んでいる」
 千尋は彼の後頭部を見上げた。美少年は瞳と同じ色合いの長い髪を、頭の高い位置で束ねている。
「あの時は力を封じるために、髪を短く切られていてね」
「──あの時、って?」
「そなたと私が二度目に出会った時だよ」
 美少年が千尋の肩に手を添える。自分の胸元から離して、何かを期待するようにじっと顔を覗き込んでくる。千尋はその瞳の中に吸い込まれ、永遠に閉じ込められてしまうかのような錯覚を抱いて、思わず彼から顔を背けた。
 なぜだろう。目の前の美少年のことが、少しだけ怖い。
「髪が元通りに伸びたら──」
 千尋のすべらかな頬に手を添えて、美少年は自分の方を向かせる。彼女の心境を知ってか知らずか、口辺に浮かべる微笑みはどこまでも優しげだ。
「会いに行こうと決めていたよ。そなたを迎える住まいも、もう用意してあるんだ」
 霞をたくわえたような白い袖を振って、美少年が指さす方を見てみると、深い霧のかかった河に石造りの大きな反橋が架かっている。色彩鮮やかな装飾を凝らした門の向こうには、大小さまざまな楼台や御殿が建ち並び、微かに楽器の音らしきものが漏れ聞こえてくる。
「たくさんあるから、好きなところを選んでいいよ。私も千尋が選んだ屋敷に暮らすから──」
 美少年の声が唐突に低く掠れる。呆気に取られていた千尋は彼の声変わりに驚き、背後を振り返った。
「きっと楽しいよ」
 美少年がいつの間にか美丈夫になっている。甘やかな笑みを絶やさず、半身を屈めて、呆然とする千尋と目線の高さを合わせる。
「最初にそなたと出会った時、私はほんの小さな川でね。誰かを懐に抱くには、まだ底が浅かったんだ」
「……」
「ああ、ごめん。千尋にはまだ早い話かな」
 彼は千尋の髪の一筋を長い指に絡めて弄んだ。千尋が唇を引き結んでうつむいていると、彼女の頬にかかる髪をかきあげ、露わになった耳元に唇を寄せてくる。
「食べてしまいたいほどかわいい千尋」
 ぎく、と千尋の身体が強張る。美丈夫は相好を崩して笑う。
「ひょっとして、私のことが怖いの?千尋」
「う、ううん」
「そう?」
 彼は千尋のまだ幼さの残る身体を見つめて、目を細めた。こわがる子供をあやすように、大きな手で頭を撫でてくる。
「大丈夫だよ」
 脇と脇のあいだに手を入れて、抱き上げられた。背の低い千尋が彼を見下ろすようになる。
 名も知らない美しい青年が、夢見るような調子でささやいた。
「あと千夜だけ、待っていてあげるから」



16.12.11 ツイッターでお世話になっている静寂紫さんよりリクエストいただきました。お題は「細野晴臣氏のサウンドトラック」とのことで、「源氏物語」より「4. 朝露」と「7. 浮橋」をイメージして書かせていただきました。私の思い描くハク像は、時に気さくで人当たりが良く、時に掴みどころのないミステリアスな「神様」なのだなと実感しています。しじさん、リクエスト&素敵なサントラを紹介していただき、ありがとうございました!


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -