約束 (番外) | - 流転 - いつからだろう、深く霧の立ちこめる場所にいた。 一寸先すらも見えないような濃い乳白色の景色の中で、遠く遠く、彼女が自分を呼ぶ声が聞こえた。 「真宮桜――」 霧の中をさ迷い歩きながら譫言のように何度もその名を呼んだ。 真宮桜、真宮桜、真宮桜。 いるならどうか姿を見せてくれ。 今はとにかく彼女に一目逢いたかった。地獄の業火に焼き尽くされてからからに渇いた魂に潤いを求めるかのように、彼女に逢いたくて逢いたくて仕方が無かった。願い叶うならば、向こう千年魂を差し押さえられようが惜しくはないとすら思えた。 彼女だけが殺伐とした心の唯一の救いだった。思えばもう随分と前から。それなのに何故自分は、こうも頑なに彼女から遠ざかることが出来たのだろう。 ――逢いたい。 それが隠しようもない本心だった。だから今度ばかりは自分に嘘をつかずに、存在すら定かでない神に祈った。 ドライアイスでつくったような霧が少しずつ晴れていく。目の前に、草花のない荒涼とした白砂の大地があらわになる。 ふと、背後から柔らかな風が吹いた。花の香りがする優しい風――どこか懐かしさを覚えながら振り返った。 鳥の囀りが聞こえた。花々は有り余る生命力を誇示するかのように色濃く咲いていた。沢山の紋白蝶がその周りを飛んでいた。 真宮桜がその真ん中で笑っていた。 前へ一歩踏み出そうとした時、足元がぐらついた。 大地を突き上げるような揺れがあった。立っていられず地に手をついた。地鳴りと振動が掌から伝わってきた。びしびしと地面が横に割れ、開いた隙間に水が満ちてゆく。 間も無く二人の間には広大な川が現れた。生者と死者、現世と黄泉とを隔てる三途の川。それがまさに自分達の境界線なのだと、言われているかのようだった。 対岸から真宮桜がこちらへ手を差し出していた。制服のスカートが風に翻り、白いワンピースになる。のぞく手足がより一層細く長く伸びていく。おさげがはらはらとほどけていく。そうやって彼女は変わっていく。少女から大人になっていく。そんな真宮桜をじっと見ていた。釘付けされたように目が離せなかった。 六道くん、と彼女が呼んだ。真宮桜、と自分も名を呼んだ。一歩前へ踏み出すと、踝が冷たい水に浸かった。 ――この川を渡ってしまおうか。一瞬、そんな思いが胸を過ぎった。 けれど進めるのはそこまでだった。 川の水が一瞬にして凍り付いたのだ。 思わず岸辺へ一歩下がる。顔を上げると、彼女はいつの間にか純白の花嫁衣裳に身を包んでいた。彼女が誰かのものになってしまう。体中の血が逆流したかのように思えた。 対岸の彼女に向かって手を伸ばした。だが見えない壁が、それ以上前に進むことを阻んでいた。それはきっととても脆い壁だった。覚悟によっては突き破ることの出来るものだった。それでも恐れをなした自分は手を引っ込めた。うなだれることしか出来なかった。自分の幸福の為に、彼女を不幸にする覚悟は無かった――。 出来ることならこの川を渡り、その手を掴み取りたい。彼女を掻き抱いて、積年の思いを打ち明けて。もう何があっても決して離さない、これからはずっと側にいるからと、そう言ってしまいたい。けれどそうするわけにはいかないのだ。それでは彼女に死の影を付き纏わせてしまう。 対岸にいる彼女が俯いた。 「ごめんね。もう、待てない」 こんなに離れているのに、はっきりと声が聞こえた。苦痛のあまり胸を掻き毟りたくなる。 彼女はこちらに背を向けた。 そして二度と後ろを振り返らずに、霧の中へ消えていった。 --------- 瞼の裏で反転する景色を名残惜しみながら、静かに覚醒する。 辺り一面が深い闇に包まれていた。天井に向かって伸ばした手すらも見えない。周りには誰の気配もなく、沈んでいきそうな静寂の中にあってただ、細く息をつく自分の呼吸だけが聞こえる。 伸ばした手で拳を握り、額に押し当てた。暗闇に目が馴れてくると、格子に組まれた天井がぼんやりと映る。指を鳴らすと、枕元に置いてある行灯に仄かな明かりがともった。和紙に散る桜の花びらが光を透かして、畳や壁に映し出されている。春夜に音も無く散る美しく儚い桜の花。それはまさに自分が閉じ込められた夢そのものの姿だった。 胸の痛みを堪えながら、最後に見た彼女の姿を思い出す。振り向きざまにしなるおさげ。卒業証書の入った筒を大事そうに握り締める細い指。満ち足りた笑顔。呼ぶ声。 真宮桜に関する思い出は、何もかも鮮明に覚えている。まるでそれがつい昨日見た情景であるかのように、頭の中に甦らせることが出来る。 全てを包み隠すこのうえなく穏やかな春の気配も。小鳥の高らかな囀りも。咲きかけの花の色も。 ――大丈夫、俺は大丈夫だ。 自分に言い聞かせながら、両手で目を覆った。 決して忘れない。たとえ彼女が忘れてしまったとしても。 end. back |