行き触れ  - Chapter 5 -



「だから言ったじゃないか。いきなり入っていったら危ないって」
 桜は大理石の廊下に座りこんだまま呆然としている。りんねが自分に向けて鎌を振り上げた。その衝撃がいまだに金縛りのように彼女の四肢から自由をうばっていた。
「危うく殺されるところだったぞ。まったく、馬鹿な女」
 魔狭人が肩を竦めると、ようやく桜はのろのろと床から立ち上がり、横目で彼を一瞥した。
「意外と優しいんだね。魔狭人くん」
「は?」
「さっきは助けてくれたし。今は心配してくれてるみたい」
「な、何を言ってる?」
 魔狭人は心外だというように目を見開いた。
「勘違いするな!僕はお前のことなんてどうでもいい。ただもう少し、りんねくんがお前のことで悩んでいるのを見物していたいだけだっ」
「そんなことを言ってるけど。本当は、六道くんを助けてあげたいと思っているんじゃないの」
 心を見透かすような彼女の眼差しに、魔狭人はまた苛立った。腰に手を当てて仁王立ちになり、頭一つ分は背の低い桜をじろりと見下ろす。
「忘れたのか?僕は悪魔だぞ。人を陥れることはあっても、救うことなんて絶対にしない」
「あ、そう」
 いかにも信じてなさそうな淡白な返事。悪魔の青年は忌々しげに目を細める。
「人間の小娘が。悪魔の恐ろしさを、知らないようだな」
「知ってるよ。自分より弱い者にはいっさい手加減しない、でしょ」
 いつか地面に叩き落とされそうになったことを思い出しながら、皮肉を込めて桜は言いかえした。くく、と魔狭人は喉を鳴らして笑う。
「ああ、その通り。でもきみは、悪魔と契約を結ぶことの恐ろしさを知らないだろう」
「……契約?」
「そう、契約だ」
「私が魔狭人くんと何の契約を結ぶっていうの?」
 廊下のシャンデリアの光を受けて彼を見上げる桜の瞳がきらきらと輝いている。人間だろうが死神だろうが、悪魔だろうが、綺麗なものを好ましく思う気持ちはそう変わらない。これが、あの恨んでやまない死神が焦がれている目か。魔狭人は口角を上げた。
「さっきお前が僕の親切な忠告を聞かずに飛び出していったせいで、りんねくんに憑いた悪霊はますます凶暴化した。りんねくんにも、もはや手に負えないほどにね。これからどうするつもりなんだ?」
「どうするって、」
 桜は表情を曇らせる。
「私は悪霊を祓ったり、浄化したりすることはできないの。だから、人を呼ぶしかないと思う」
「呼ぶって、誰を?」
「六道くんのおばあさん、魂子さんとか。あの人なら、ベテランの死神だし」
 もったいぶるように、ゆっくりと頷きつつ魔狭人は目を細めた。
「なるほどね。妙案じゃないか。それできみは、そのお助け死神とやらを、どうやって呼ぶつもりなんだろう?」
 猫撫で声できいてくる魔狭人に、桜は言葉をなくして唇を引き結ぶ。どうも嫌な予感がした。
「僕がいなければ、きみは霊道を通れない。きみ一人では、死神界には辿り着けない」
「……」
「つまり僕の力を借りなければ、きみは助けを呼ぶことができないわけだ!」
 勝ち誇った表情で、魔狭人は意気揚々と両腕を広げた。図星なだけに、桜は返す言葉がない。
「さて、どうする?もし、僕と契約して対価をくれるなら、死神界へ使いを出してやってもいいけど?」
 悪魔との契約。ますます嫌な予感がする。今や余裕しゃくしゃくとした魔狭人の顔を、桜は恨めしそうに見やった。
「──対価って、たとえば何」
「今、きみが持っているもので十分だ。目玉や指なんかもいいけど、記憶とか声とか、形のないものでも契約は結べる」
 桜は睫毛を伏せる。いくらりんねのためとはいえ、目玉をえぐったり指を切ったりするのは考えただけでも寒気がした。となれば身体的な痛みのない、形のないものを差し出すしかない。記憶、または声。
 りんねの苦しみが彼女自身に起因しているというのなら、このまま放っておくわけにはいかなかった。軽率な行動のせいで状況を悪化させてしまった後ろめたさもある。何より、一刻も早く救い出してあげたい。またいつものように、学校に来て欲しい。
 桜は拳を強く握り締めた。決意が固まった。
「わかった。魔狭人くん、あなたと契約する」
 魔狭人は口角を持ち上げた。
「りんねくんのために、我が身を犠牲にするってわけだ。麗しいね」
「その代わり、約束して。絶対に魂子さんを呼んでくれるって」
「もちろん、約束しよう。それで代わりにきみはどんな対価をくれる?」
 桜は視線を逸らさないまま、喉元を押さえた。魔狭人がへえ、と驚きの声を上げる。
「声をくれるんだ。確か人間の子供が読む童話に、似たような話があったっけ。──まあ、いいだろう」
 思い出すのが面倒だとばかりに首を振って、魔狭人は桜の喉に手を伸ばした。
「自分のためにきみが声を失ったと知ったら、りんねくんはどんな顔をするだろうな」
 白い喉に触れるか触れないかの位置で手を翳して、目を細める。
喉元に冷たい塊のようなものを感じて、桜は呼吸をとめた。じっと耐えていると、それは魔狭人の手の動きに従ってゆっくりと外へ押し出されていき、やがて完全に彼女のものではなくなった。魔狭人は手にした小さな光の玉を、クリスタルの瓶に落として、耳元で小さく振った。ころころ、と玉が転げる音が響く。それは笑った時の桜の声によく似ていた。
「確かに対価は貰ったよ。約束通り、死神界に使いを出そう」
 魔狭人がパチンと指を鳴らすと、廊下の先から三目のカラスが飛んできて、彼が差し出した腕に止まった。魔狭人はカラスに顔を寄せてひそひそと囁きかける。事を仰せつかると、カラスは了承のあかしに一声を上げて、翼をはばたかせながらまた廊下の先へと飛び立っていった。
「これで契約は履行された。気分はどう?」
 ニッコリと満面の笑みで聞いてくる小憎らしい悪魔に、嫌味のひとつも言ってやりたくなった桜は口を開きかけた。しかし声は出ず、かすかに空気の音がこぼれるだけ。口惜しくなってつい唇を噛んだ。
『最悪な気分だよ』
 心の中で毒づいたつもりが、まるでそれが聞こえたかのように、意地悪な笑顔を浮かべる悪魔だった。





To be continued

(悪魔の契約云々は、「ハウルの動く城」のもじりです笑)


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