愛の妙薬 Act.3



 スネイプ教授は音も立てずに立ち上がった。もう何も言うことは無いとでも言うように。
 相変わらず何を考えているのか理解不能の、深く底知れぬ夜色の目が、抉るように僕を見下ろす。まるで心の奥底を覗かれているような気がして、居心地の悪くなった僕は思わず目を逸らした。
 教授が呟いた。
「これだけは覚えておくといい、ドラコ。──一度言ってしまった言葉は、決して取り戻すことが出来ない」
 顔を上げて再び仰ぎ見ると、教授は既に視線を逸らして遠くを見ていた。なにかを懐かしむように、壊れ物を撫ぜるかのように、教授はそっと囁く。
「初めから手に入らないと分かっているなら、関わりを持ってしまうよりも……ただ遠くから見ている方が、余程いいのだろう」
 一瞬その場は水を打ったように静かになった。
「……それでは、その人は?その人はそう出来たんですか?」
 思わず投げ掛けたその問いに、僕は明確な答えを期待してはいなかったが、教授は律儀に反応を示して見せた。
 教授は静かに、首を横に振る。
「いや、彼にはそれが出来なかった。だから今も彼は……苦しんでいる」
 それきり教授は長いローブを翻し、連なる机を横切って、教室の扉へと向かって行った。教授が扉を開けた瞬間、外から廊下を行き交う生徒達の話し声が雪崩れ込んできた。
 その瞬間唐突に、初めて教授への反発が芽生えた。
 お前に何がわかる。人を愛したことすらないような人間に、この苦悩がわかるはずがない。遠くでただ見ているだけで満足できるなら、とっくに諦められている。
「──関わりを持てないでいられるなら、僕だって、こんなに苦しまない」
 絶望に満ちた恨み言のような独り言は、恐らく扉の向こう側に消え去った人物には聞き取れなかっただろう。

 スネイプ教授が行ってしまうと、僕は再び教室に一人になった。ふと視線を彷徨わせて、奥の部屋に通じる扉が僅かに開いていることに気が付く。
 恐らく教授が閉め忘れたのだろう。その奥には授業に使用する器具や魔法薬のサンプルなどがある筈だ。
 教授にしては珍しく不用心だった。それだけ何かに深く心を傾けていたということだろうか。それとも、教室に残っているのが僕だけだから、問題ないと思ったのか。
 立ち上がって教卓を通り過ぎ、何気なくその扉の取っ手に手を掛けた。古めかしく金具が擦れる音がして、薄暗い小さな備品庫が目前に姿を現す。
 中は少々埃と黴臭かったが、几帳面に整頓されていた。鍋は大きさの順に重ねられ、汚れのないビーカーやマドラーなどのガラス器具は、木製の戸棚に収められている。
 背後の戸棚には小瓶がずらりと並べられていた。一つ一つに薬の名が記されたラベルが貼ってあり、中の液体はどれも異なる色をしている。その中には名前すら知らなかった魔法薬も多くあって、いけないと知りながらも、僕は興味本位に一つ一つの名を辿り始めた。
 ふと、ある魔法薬の名が目に留まって、戸棚のガラス窓の上を滑っていた指がぴたりと止まった。
「──愛の妙薬?」
 驚愕した。あのスネイプ教授が、この魔法薬のサンプルを備蓄していたことに。思わず語尾が疑問調になる。
 教授が「愛の妙薬」を精製する場面など、どう頑張っても想像できなかった。勿論この分野に誰よりも精通している教授のことだから、その精製法を知っていても何ら疑念は沸かないのだが。
 それでも、この薬を教授が授業で取り扱うとは全く思えなかった。そんな珍事が起きた日には、グリフィンドールの連中が目を剥くことだろう。
 僕は興味本位に戸棚を開けた。「愛の妙薬」のラベルが貼られた小瓶の中では、透明の液体が揺らしてもいないのに勝手に揺らいでいる。
 手に取った瞬間、その液体が少しずつ変色していき、透明から少し明るめの栗色に変わった。
 ──彼女の髪の色だ。思わず息が詰まる。
 魅入られたように小瓶を握り締めると、液体は様々な色に変わっていった。栗色が少しずつ濃くなっていき、彼女の目と同じとけるようなチョコレート色に。また少しだけ明るくなり、彼女のネクタイの燃えるような赤色に。眩しい黄金色に。
 不思議なことに、それをただ手の内に握り締めているだけで、まるでグレンジャーがすぐそばにいるかのような思いに囚われた。
 返さなくてはいけないと分かっているのに、握り締めた手は、意に反してその小瓶を離そうとしない。
 それどころか僕はその手を、ローブのポケットへと仕舞い込んでしまった。
 ──返さないと。スネイプ教授が帰ってくる。
 頭の中で微かに自分の声が鳴り響く。
 しかし、少しずつそんな声も薄れて行った。
 頭がぼんやりとした。まるで霞の中を無気力に漂っているかのような気分だった。ふわふわとした覚束無い思考の中で、グレンジャーの声が優しく、呼ぶはずのない自分の名を呼んでいる。
 思わず頬が緩み、締まりのない顔を隠すように、額に掌を宛がって俯く。
 薬に囚われ始めたことを、僕は頭の片隅に追いやられた理性で微かに自覚していた。
 けれどすぐに、そのことすら忘却の彼方へと押し遣られてしまった。
 瞼の裏で、焦がれていた彼女の慈愛に満ちたまなざしが、まっすぐにこちらに向けられていた。チョコレート色の瞳の中に、幸せそうに微笑む自分の顔が映る。
 ──この薬を彼女に使え。そうすればきっと、彼女も僕に振り向いてくれる。僕だけを見てくれるようになる。
 悪魔の囁きが頭の中に満ちた時、一切の迷いが払拭された。
 戸棚に杖を向けていた。覚えたての呪文をささやき、盗んだ小瓶のレプリカを造り出す。
 誤魔化しにしかならないと分かっていた。それでも、少し失敬してまた戻しに来るまでの間なら、なんとかなるだろうと踏んだ。

 ローブのポケットの中、指先で小瓶を転がしながら廊下に出る。
 気分が浮ついていてとても心地よかった。頭の中には既に彼女のことしかなかった。
 僕は心を弾ませ、スキップしてしまいたい衝動を堪えながら、頭の片隅では冷静に策略をめぐらせる。どのように、彼女にこれを飲ませるか。
 聡明で勘の鋭い彼女のことだ。一筋縄ではいかないだろう。
 途中廊下で、エプロンを纏った一匹の屋敷しもべ妖精に出くわした。そういえば、彼女は彼等には取り分け優しいのだった、という事実をふと思い出す。途端に、妙案が閃いた。
 こいつに協力してもらえばいい。厨房を預かる屋敷しもべ妖精なら、薬を盛ることなど造作もないはずだ。
 僕は振り返って、一度は通り過ぎた小さな妖精の前に立った。
 ポケットの中で小瓶を転がしながら、笑いをかみ殺すことができなくなった。




To be continued
(教室の備品庫・愛の妙薬の設定などは創作です)


back




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -