約束 (番外)
- 追憶 side:R -


「リンネ」
 彼女がその名を呼ぶたびに、遠く離れたところにいながら、この声を張り上げて応えてしまいたいと思う。何度でも、彼はそうしたくてたまらない衝動に駆られ、そのたびにもっともらしい理屈で抑え込んでは、やるせなくなって胸をかきむしりたくなる。
 桜が呼ぶのは彼の名だが、その呼び声は彼に向けられたものではない。それは、彼女が愛してやまない一人息子にあたえられた名だ。
 今日もまた、いつかの児童公園。彼の名をもつその子は、楽しそうにブランコを漕いでいる。桜はもう一度、子どもの名を呼ぶ。傾きつつある西日が、他の誰かのものになった今もなお、花の名にふさわしく可憐な彼女に照りつけている。
 あのひとに、自分の存在を知らせたい──。
 両手で顔を覆い、彼はまたかなわぬ恋にじりじりと胸を焦がす。
 一度違えた道は二度と再びまじえることはできない。そんなことは、とうにあきらめがついている。だがせめて、彼女に恋い焦がれてやまない愚かな男が、こうしてずっと、近くて遠い場所から見守っているのだということに、気づいてほしいのだ。
 彼にとって、桜は生きる意味そのものだった。あのひとの幸せのためなら、どれだけの犠牲もいとわず、彼のすべてを捧げても惜しくはなかった。彼は自分自身を彼女から遠ざけなければならなかった。そうすることが桜のためになるはずだった。なのにその反面、どうしようもなく彼女に引きつけられてしまう自分がいた。離れようとすればするほど、傍にいたくてたまらない。
 かけがえのない存在である彼女に、その目で見つめてほしかった。昔のように、その声で名を呼んでほしかった。その手で触れてほしかった──。
 それはあまりにも贅沢な願い事だった。決して叶うことはないと、わかっていた。それでも死神は、それが生きるよすがであるかのように、淡い夢を抱き続けた。いつの日かきっと、この身を切るような恋をひたむきに貫いたならばかならず、あの頃のふたりに戻れるはずだと──。

「どうしたの?」
 母の手にひかれて公園を出ようとして、少年は後ろを振り返る。そのままなかなか動こうとしないので、心配した母が優しくその頭を撫でた。
「何かこわいものでも、見えた?」
 少年は困惑顔で首を振る。その目に映ったものは、こわいもの、ではなかったらしい。
「いま、あの木のうえでね」
 小さな指が遊具のそばに立つ木を指し示した。冬の今はすっかり枯れ木の、枝垂れ桜だ。
 目を凝らすが、母の目には何も見えない。彼女は霊視の力を失って久しい。
 心優しい少年は眉を下げて、枯れ木に憐れみのまなざしを向けた。
「だれかが泣いてるような気がしたんだ」



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