愛の妙薬 Act.2


 ──あなたも、私のことなんて、そこら辺に漂ってる空気だとでも思ってちょうだい。これからは、なるべくあなたに迷惑かけないように努力するわ。
 その言葉をグレンジャーは、次の日の魔法薬学の授業から早速実行に移した。
 いつもならスネイプ教授の質問に答えようとして、当ててもらえる見込みも無いのにしつこく手を挙げたり、嫌味を浴びせられようともしぶとく食い下がっていたのに。
 今日は終始、教授の話にただ耳を傾け羽ペンを動かしているだけだ。
 二つ先の机に大人しく向かうその背から、今日は特に目が離せない。
 授業中にこんなにも大人しい彼女を見たことが無い。どうにも居心地が悪かった。
 スネイプ教授がクラスに質問をするたびにグレンジャーを一瞥したが、彼女は黒板と教科書以外の何にも視線を向けてはいなかった。おや珍しい、とでも言うように教授はその度片眉を微かに上げて見せていたが、何度目かの質問の後に教授とふと目が合った。
 時間にして数秒。教授が何かをその視線で訴えかけているような気がしてならなかった。
 けれど僕は生憎、相手の目を見ただけで読心する術など心得てはいない。

 調合に使う薬草を取るために、黙々と大鍋に向かうグレンジャーの横を通り過ぎる時、思わずちらりとその横顔を一瞥した。
 隣に居るポッターが何を勘違いしたのか、立ち止まった僕に気付いて眉根を寄せる。
 不気味な色をした得体の知れない薬の撹拌をやめて、ポッターはグレンジャーの頭越しに声を張り上げた。
「何だよ、マルフォイ!またハーマイオニーにちょっかいでも出しに来たのか?」
「誰がこんな奴に構うもんか。僕だって暇じゃないんだ。こんな『穢れた血』のために割く時間なんかないね」
 ──ああ、まただ。言わなくてもいいことまで言ってしまう。
 自分の中で緊張の線がぴんと張られたのが分かった。
 しかし。
 予想に反して、グレンジャーは一切の反応を示さなかった。
 彼女はただ黙々と調合を続けていた。怒り心頭のポッターに「ハリー、撹拌を続けないと」と至って冷静に忠告する。
 驚いて横顔を食い入るように見つめた。が、こちらを見さえしない。
 腹の底から怒りと焦りとが一緒くたになってこみ上げた。
 ビーカーに注がれた銀色の液体の目盛りに集中する彼女の机に、思わず勢いよく手を付いた。
 大鍋に並々と張られた金色の薬液が、危う気に揺れて鍋の端から零れ落ち、細い線を成して鍋の外側を伝う。
 それでも彼女は、見向きもしない。
 魔法薬の精製を邪魔した僕を怒ることもない。
 ──完全に無視されている。
 背中を這い上がる悪寒に唇が震えた。冗談じゃない。そんなことは信じたくない。
 何とか反応を返してほしくて、気付けばまた、言ってはいけない言葉を口にしていた。
「……穢れた血め」
 グレンジャーが何も聞こえていないかのように、ポッターに話し掛けた。
「ハリー、薬の色が変わってきているわ。煮立ってしまったらもう取り返しがつかなくなるわよ」
 声色には微塵の変化も浮かばない。僕は拳を青白くなるほど強く握り締める。
「聞いているのか、僕はお前に話しかけてるんだぞ」
「ああ、ほら。もう灰色になってきているじゃない。黒くなる前にこれを──」
「グレンジャー、聞こえないのかっ!?」
 我慢がならず、思わず声を張り上げた僕を、それでもやはり見向きもせずに。
 隣で唖然として僕達を見比べているポッターの鍋に、彼女は几帳面に刻まれた赤い薬草を振り入れた。
「──混ぜてしまえば、大丈夫よ」
 僕には決して向けられることのない、とても優しい声だった。

 授業が終わっても動く気になれなかった。僕は半ば放心状態で、空になった大鍋の淵をぼんやりと見詰めていた。
 クラッブとゴイルは昼食をとりに大広間へ向かった後で、教室には誰も残っていなかった。
 立ち上がって二つ前の机に向かい、指先でその長机の木目に触れながら、彼女が座っていた席に座る。温もりも何も残ってはいないが、そこにいるだけで何か胸の内から込み上げるものがあった。
 机に頬を付いてゆっくりと目を閉じる。彼女のポッターに向けた優しい声が、耳にこびり付いて離れなかった。
「……グレンジャー」
 一度でもいい。あの優しい声が自分に向けられたなら。隣でただ微笑んでくれたなら。瞳を嫌悪に歪めることなく名を呼んでくれたなら──。
 カタン、と目の前で音がした。はっとして顔を上げると、黒づくめの人物がそこに居た。前の席にスネイプ教授が座っている。
 驚愕して思わず息を呑む。
 教授はこちらを向いて座っていた。目を固く瞑り、腕を組んでいる。瞑想に耽っている様子だった。声をかけ難く、ただ息を顰めてその様子を見守る。
 暫らくの後。目を閉じたまま、いつものような教室中に轟き渡る声ではなく、まるで独り言を呟くかのように、教授は言葉を発した。
「ドラコ。君を見ていると、まるで……」
 最後は消え入るかのような声だった。
 ──まるで、何だと言うのだろう。
 姿勢を正し、唇を噛んで続く言葉を待つ。しかし、深く俯いた教授はそれきり再び、物思いの淵に沈んでいき、なかなか浮上してこない。
「……教授?」
 思わず呼び掛けてしまうと、教授はゆっくりと瞳を開いた。深い夜色の瞳が、一見何をも恐れないように見えるその瞳が、僕の纏うローブにを彩る濃緑を捉えて、一瞬揺れる。
「君を見ていると──私が昔、よく知っていた少年を見ているような気がしてならない」
 そう言って教授は、口元だけで薄く笑った。それは、いつも生徒たちに向けるような、嘲笑や冷笑の類ではなかった。
 どこかさびれたような、やけになったような。
 そんな危うく儚い微笑だった。
 そう見えたのは、果たして気のせいだっただろうか。




To be continued


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