命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 11 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 11


 その翌日から犬夜叉はかごめに極力触れなくなった。触れられなくなった、というほうが正しいのだが、かごめには彼の苦悩など知る由もない。
 離れていた時を埋め合わせるかのように身を近く寄せ合い睦みあっていた先の一週間が嘘のように、大人しくそして慎ましくなった犬夜叉に、かごめは若干の困惑と不満を覚えている。
「ねえ犬夜叉、私なにかした?」
 蝋燭のあかりの下で、夕餉もそこそこに身を乗り出して訊くかごめに、犬夜叉は憔悴し切った表情で言った。
「別に…なんでもねえよ」
「なんでもないわけないじゃない。ここ数日、あんたちょっと変よ?」
 言いながら昆布の佃煮を口元に運ぼうとして、かごめは僅かに眉をひそめ、箸でつまんだものを小鉢に戻した。その様子を犬夜叉は見とがめ、今度は怪訝な表情をする。
「食いたくねえのか」
「……あまり食欲がないの、最近」
 小さく嘆息しながらかごめは訴えた。顔色が悪く、頬も心無しか痩けて見える。悪い予感ばかりが増幅されていくようだった。犬夜叉は肝が冷える思いを味わう。
「食欲がなくても食え。お前、ただでさえ痩せっぽっちなんだからよ」
 膳を顎でしゃくりながら犬夜叉は言った。そこに有無を言わせぬ空気を感じ取り、かごめは言い返しそうになるのをぐっと堪える。
「……わかったわよ。犬夜叉がせっかく元気になってきたのに、体調崩してなんかいられないもんね」
 つとめて明るい調子で言うと、かごめは朱塗りの椀を手に取り、三つ葉と桜色の麸が浮かんだ吸い物に口をつけた。ここの料理は美味しいわね、と賛辞を述べながらも、無理をしている様子がありありと見て取れた。犬夜叉は、申し訳なさのあまり胸がひりつく思いを覚える。
 俺の調子がいいのはお前から生気を奪い取ったせいだ。俺は悪鬼と同じなんだよ。──と叫び出しそうになるのを彼は必死で堪えた。
 けれどもう愚かな真似はしない、と犬夜叉は臍(ほぞ)を固める。関係さえ持たなければ、かごめはきっとまたいつもの元気なかごめに戻るはず。触れ合えなくとも、側にいてくれるだけでいい。それだけで満足だ。

 そこで犬夜叉ははたとあることに気付く。……そもそもかごめをこの屋敷にとどめていること自体が、愚かな真似とは言えまいか、と。

 犬夜叉は青ざめながらかごめの横顔を見る。彼女はそれが義務であるかのように黙々と、そして淡々と箸を口元に運んでいる。雲霞を渡る月のように青白い顔をしながら。
 義務。かごめには家に帰る義務がある。そこは彼女の属すべき場所であり、家族の待つ場所だから。片や彼女にはここに留まる義務などない。その義務を押し付けているのは自分だ。籠の中の鳥さながらにかごめを閉じ込めているのは、帰る道を閉ざしているのは、この自分だ。
 ──帰してやらないと。あるべき場所へ。
 頭ではそう理解していた。それでも犬夜叉は、見詰めるその横顔が愛おくてたまらなかった。愛おしく、名残惜しく、そして離しがたかった。歯軋りしながら犬夜叉はうつむく。
「……かごめ、」
 小さな呼び声に、かごめは小首を傾げて犬夜叉の方を向いた。犬夜叉は口を開きかけて、閉じた。
「なに?」
「いや…何でもねえ」
「帰らないわよ、私」
 まさに藪から棒の宣告だった。虚を衝かれた犬夜叉は思わず息を呑んだ。かごめは凪いだ水面のように穏やかな瞳をしている。
「少し記憶が戻ったから、色々考えてるんでしょ。私のためにも帰したほうがいいんじゃないか、とか」
「……なんで、」
「わかるのかって?…だってあんた、五百年前だってそうだったじゃない」
 ふふっとかごめは肩を揺らして笑った。そう言えばそんなこともあったかもしれないが、まだ具体的には思い出せない。犬夜叉の犬耳が心持ち垂れる。
「どこにも行かないわよ。ついこの間、約束したばっかじゃない」
 その言葉にどうしようもなく安堵を覚えながらも、犬夜叉は胸の裡に蟠る不安を払拭できなかった。それどころか不安はどんどん影を濃くしていく。
 そもそも、この離しがたい思いすらも、かごめという巫女の強い魂への渇望から生じたものなのではないか。かごめを真に思っていた五百年前の自分であったなら、かごめを命の危機に晒すくらいなら、断固として彼女を遠ざけたはずだ。その心を傷付けてでも。
 犬の魂を食べて生き長らえてきた自分は、やはりもうあの頃の自分には戻れないのかもしれない。純粋にかごめを愛することができないのかもしれない。自分であって自分でない存在に成り下がってしまったのかもしれない。
 だとしたら、今の自分は悪鬼だ。狗魂では飽き足らず、巫女の魂を渇望する悪鬼なのだ。そして、悪鬼のもとへかごめを置いておくなどもっての外だった。
 ──逃げろ。俺から逃げてくれ、かごめ。
 心の裡で犬夜叉は言った。口に出して言うことのできない自分がまた、恐ろしかった。

 そんな葛藤も知らずに、かごめは優しく微笑んで彼を見詰めている。五百年前と寸分違わぬその表情が、変わり果てた自分にはあまりにも不釣合いに思え、犬夜叉は寂れた微笑を浮かべた。



To be continued 

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