約束
- 天寿 -



 病院に続く一本道を縁どる染井吉野の並木が、春のたけなわを物語っていた。一歩踏みしめる度に、花びらがひらひらと散り交っていく。ひと組の父娘が手をつないで、その並木道を歩いていた。
 ふとつないだ手が離れる。娘がはしゃぎながら、道の先へ駆けていった。走ると危ないよ、という父親の言葉に、両側に編んだみつあみを揺らして振り返り、満面の笑顔を浮かかべる。
「パパ!おばあちゃんにお花をあげたら、よろこぶかなあ」
「ああ、きっとね。おばあちゃんは、桜の花が好きだから」
「ほんと?じゃあ、お花あげたら、おばあちゃんの病気もなおるかな?」
「……」
 父親の視線がゆっくりと、娘から逸れて花びらの散り積もるアスファルトに落ちた。どう言葉をかけていいか分からないような、戸惑った表情。だが、またすぐに顔を上げた。娘にむかって近づいていき、小さな頭の上に手をのせる。
「パパは先におばあちゃんのところに行っているよ。桜子は、おばあちゃんのために花を取ってきてあげるといい」
「うん、わかった」
「でも、知らない人について行ったりしないこと。寄り道をせずに、まっすぐおばあちゃんの病室に来るんだよ。いいね?」
「はーい!」
 良い子の模範的な返事に、父親は穏やかな笑顔で娘の頭を撫でる。
 再び歩みを進めながらふと、彼は瞳を曇らせた。もう先程の笑顔はない。視線の先には、娘の祖母、つまり彼の母親がいる病院があった。
 一年前に自宅で倒れて以来、彼女は病に臥せるようになった。数か月前から、本人の意向により、この市立病院に入院している。
 数年前に父親を亡くしてからは、母親の桜と、一人息子である彼とその妻、そして娘の桜子の四人で暮らしていた。桜が入院して以来、三人親子だけになってしまった家の中は、どことなく閑散としている。
 病室のドアをノックする。どうぞ、となかから返ってくる声に、心から安堵する。
 いい大人にもなって、親離れができていないようで情けない。せめて家族の前では、そういう弱気なところは見せまいと、つとめて平静を装っていた。それでもこうして母と二人きりになると、どうしても隠していた本音が、口をついて出てしまうのだった。
「母さんが、早くうちに帰ってきてくれるといいな。晴子も桜子も、みんな待ってるよ」
「ほんとうに?──私も、帰れるものなら早く帰りたい」
 桜は、ベッド脇で心細そうな顔をしている一人息子に向かって、優しく微笑んだ。
「どうしたの?なんだか元気がないわ」
「いや、やっぱり母さんがいなくて、寂しくて……」
「あら、いい年をしてどうしたの。らしくないこと」
 くすくす、と肩を揺らして笑う彼の母は、年をとってもなお可愛らしく、照れくさくなった彼は肩を小さくすくめた。桜は笑うのをやめると、ふと開け放たれた窓の向こうを見上げ、目を細める。
「もうすっかり春だわ。でも今年は、お花見に行けそうにないわね──」
 こういう時の母は、このうえなく柔らかな表情をしている。遠いまなざしで何かを探し、待ち侘びているかのようにも見えるのだった。
 幼い頃から、そんな母の姿を数え切れないほど見てきた。けれどその理由を問いかけることは、なぜかできずにいた。彼女の唯一の子供である彼でさえも、立ち入ってはいけない領域が、そこにはあるような気がした。
「あのさ、母さん」
「──なに?」
 リンネ。
 その名を呼ぶたびに、母の声がかすかに揺れる、その理由も、彼にはやはりわからずにいる。
 いつだったか、なぜ自分をそう名付けたのかと、尋ねたことがある。
 すると彼女は、リンネという言葉が、彼女にとって世界で一番大切な言葉だから──、と明かした。
 あれ以来、その話題に触れることはなくなった。彼が意図的に避けるようになったのだ。それはきっと、その「立ち入れない領域」というものを、その時はじめて漠然と感じたからだろう。
 母が心に大切に抱き続ける、リンネという言葉。そして、その何かを切実に待ち続けるような、母の眼差し。──その二つには、つながりがあるように思えてならないのだった。
「母さん、」
 桜が視線で先を促す。彼はとうとう、積年の疑問を晴らす時が来たと思った。
「母さんにとって、リンネっていう言葉は、どうしてそんなに大切な言葉なの?」
 立ち入ってはいけない領域に、足を踏み入れてしまった後ろめたさ。けれど、もう知らないふりを突き通せる自信がない。
 桜は窓の向こうに視線を流した。その遠い目が、彼に不安を抱かせた。母は確かに今ここにいるのに、こうして手を握っているのに、まるで今にも、どこか遠くへ行ってしまうかのような──。
 聞かない方が、いいのかもしれない。聞いてしまえば、誰かが、彼女を連れていってしまうかもしれない。なぜかは分からないが、そんな気がした。
「……ごめん、余計なことを聞いたね。言いたくなかったら、言わなくていいから」
「謝ることなんて、ないわ」
 母はもう窓の向こうは見ておらず、まっすぐに彼の目を見つめていた。
 ああ、その目だ。一見すると水のように澄んでいて、それなのに、燃え上がる炎のようにはげしいものを秘めた目。それはまぎれもなく、何かを待ち焦がれている目だった。
「私は、リンネに心を奪われてしまったの。──もう、ずっと昔に」


 すべてを知ったとき、彼は目蓋を指で押さえながら、天井をあおいだ。長い間心に秘めていたことを語り終えた彼の母は、満ち足りた表情で目を閉じている。
「その、りんねという名の死神のことを、母さんはずっと──」
「──とても好きだった。もちろん、今でも忘れられないわ。離れ離れになってしまってから、もう、こんなに時が経つのに。私は結婚をして、子どもを産んで。幽霊だって見えなくなってしまった。歳をとってしまった。こんなに、」
 彼女は薄く目を開けた。窓のむこう、春空に舞う桜の花びらを、彼もそばで見守る。
「変わってしまったのに。あの頃の私なんて、もう、どこにもいないのに……」
 うつむく桜の瞳から、パタパタと涙がこぼれおちる。彼女は、両手で顔を覆った。
「どうして、人間は変わってしまうんだろう。いつまでもそのままでいられないんだろう。……あの頃の私でいられたなら、ずっと、一緒にいられたかもしれないのに」
 彼は幼いころの記憶を手繰り寄せていた。
「母さん。俺、その死神に、会ったことがあるよ」
 桜がゆっくりと彼のほうを向く。
「真っ赤な髪と目をしててさ。大きい鎌を持ってた。あの人が来たら、俺の後ろにいた幽霊が、なんでか知らないけど、どんどん消えていった」
「……」
「幽霊が見えるって言ったら、すごく驚いてた。でも、名前を教えたら、もっと驚いてたっけ」
 そして、交わした約束のことを、彼は思い返した。自分に出会ったことを決して母親には言うなと。そう言い残して、あの死神はまるで逃げるように、飛び去っていった。
「あの人はさ、母さんのこと、見ていたんじゃないかな。離れたところから、ずっと。母さんに知られないように、本当は母さんのこと、守ってくれてたんじゃないかな。あの日、俺を守ってくれたみたいに。──だってそうじゃなかったら、どうしてあんなに近くにいたんだろう?」
 引き結ばれた彼女の唇がぶるぶるとわなないた。
「六道くんが、すぐそばにいたの──?」
「そうだよ。あの人は、理由なしに母さんを置いて、どこかへ行ってしまうような人ではないんじゃないかな。──本当はきっと、母さんのことを、誰よりも守りたかったんだと思う」
 りんねという名の死神のことを深く知っているわけでもないのに、なぜか彼は確信を持ってそう言い切ることができた。霊から守ってもらったあの日には分からなかった、あの死神の想いが、今ならわかるような気がしたからだった。
「リンネって、そんなに大事な言葉だったんだね。だから母さんは、俺にその名前を──」
 彼女は涙を指先で拭って、はにかむようにそっと微笑んだ。
「私ね。死ぬことが、怖くなくなったみたい」
「え?」
「だって、もしもリンネの言うことが本当なら、きっと六道くんは今もどこかで私のことを、見守ってくれているでしょう。──私が死んだら、真っ先に駆け付けてくれると思う。だって、」
 目を閉じて、両手を自分の胸に当てる桜。心臓が鼓動を刻んでいることを確かめるように。今この瞬間を、愛おしむように。
「六道くんは、誰よりも優しい死神なの。最期に未練をのこした魂を、絶対に見捨てたりしない。あの人は、そういう人だから」
 だから、好きになったの──。
 



 幼い少女が木のそばにしゃがみこみ、楽しそうに鼻歌をうたいながら、地面に散らばった花びらを小さな手でかき集めていた。
 両手いっぱいに花びらをすくいとって、立ち上がる。ふと、視線を感じた。きょろきょろとあたりを見回すと、その主は木の幹に寄りかかって少女を見おろしていた。
 しばらくの間、見つめ合った。
 赤い髪の青年が、優しい声で訊く。
「そんなに集めて、どうするんだ?」
 桜子は、自分の手を見下ろした。花びらの甘い香りごと、胸いっぱいに空気を吸い込む。
「これはね、埋めるんだよ」
「埋める?せっかく集めたのに、どうして」
「花びらを埋めると、新しい木が生えてくるかもしれないんだって。おばあちゃんが言ってた」
 そうか、と青年が呟いた。
 風がごうっと音を立てて、彼女の目の前を吹き抜ける。せっかく集めた手のひらの花びらが、いっせいに舞い上がった。
 花吹雪のなか、青年が独りごとのように囁いた。
「この桜の木にも命がある。花びらは、その子供みたいなものだ」
「こども?」
「木は、花びらに命を分けてやるんだ」
 少女には難しい話だった。構わずに彼は遠い目をして先を続ける。
「時が来たら、花びらは木を離れる。それはいつか子供が親のもとを離れていくのと同じだ。そうやって命はつながっていく。木だけじゃない、人間も動物も。もちろん、──きみも」
「桜子も?」
「きみの命は、親から分けてもらったもの。親の命は、きみのおじいさんおばあさんから、分けてもらったものだから」
 命に終わりはないと思う、と青年は言った。少女は首を傾げる。
「終わりはない?でも、おじいちゃんは死んじゃったよ?」
「それでも、きっとどこかで生きている」
「でも、お葬式をしたよ。お墓参りにもいくよ。おじいちゃんは、あそこに眠ってるんだって、パパとママが言ってた」
「命が眠りにつくことはない。なぜなら、魂は転生するから」
「てんせい、って?」
「生き返るのと同じことだ。でも、次もまた人間になるとはかぎらない。虫になるかもしれないし、犬や猫、魚になることだってある」
「じゃあ、おじいちゃんもそうやって、どこかで生きてるの?」
 青年が頷いて、桜子の頭を撫でる。
「きみに向かって吠えた犬が、おじいさんかもしれない。昨日何気なく通り過ぎた人が、きみの前世と深く関わりのあった人かもしれない。そういうものなんだ」
「ぜんせ?」
「きみが、きみとして生まれる前のことだ。命はそうやってめぐる。たとえ一時離れ離れになっても、きっとまたいつか──」
 青年は言葉を切って、桜子の後ろに視線を送った。桜子がその視線の先を振り返ると、ほんの少し離れたところで、彼女の父がたたずんでいた。いまにも泣き出しそうな顔をして、二人を見ていた。



「もうそろそろ、なんですね」
 数秒間の沈黙があった。桜子には何のことかわからないが、父と青年は深刻な顔だ。
「ずっと、見守ってくれていたんですよね。離れたところから、母のことを」
「……」
「昔、どんな事情があってあなた方が離れ離れになったのか、俺には分からない。立ち入ることなんかできないって、わかってます。でも、ひとつだけ言わせてください。──母はずっと、あなたを待っていました」
 深く俯く青年。前髪が、寂しげな目を隠した。
「母は言ってました。もうずっと昔から、あなたに心を奪われていたと。今でも、あなたを待っていると。最期にはきっと、迎えに来てくれるはずだ、とも」
 はじかれたように、顔を上げる青年。端整な顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。
「もう、遅いんじゃないかと思ってた。彼女を迎えに行く資格なんて、俺にはないんじゃないかと」
「それは死神として?それとも、」
「──ただの男として」
 何を悩む必要がある?ふたつの心は、とうの昔に通い合っていたはずなのに。もどかしさにリンネは唇を噛む。想い合うあまり、離れ離れになるしかなかった、ひたむきで不器用な恋。
「母の最後の願いを、叶えてあげてくれませんか。それは、あなたにしかできないことだから」
 それに対する、彼の答えは──




 天寿の果ての行き止まりに、桜はひとりたたずんでいた。進むべき道がないから、ここから先にはもう進めない。
 見おろす手はみずみずしく、皺一つない。まるで高校生だったあのころまで、時間が巻き戻ったかのようだった。
 桜は首を振る。
「時間が戻ったわけじゃないんだよね、きっと。私は、あの頃から、止まっていたんだ──」
 彼が去ったあの日に、彼女の中のなにかが止まった。未練を抱いて死んだ者が、こうして行き止まりで立ちすくむ意味が、桜はようやく分かったような気がした。
 もと来た道には帰れない。かと言って、行き止まりの先にも行けない。
 ──誰かが迎えにきてくれるまでは。
 桜はゆっくりと目を閉じた。これほどの時を経ても、今もなお脳裏によみがえる、燃えるようなあの瞳の色。
「会いたいなあ……」
 それが叶ったら、もう何も思い残すことはない。



 なつかしい声が彼女の名を呼ぶ。眠りかけた魂を優しく揺り起こすように。
「──迎えに来た。随分と、遅くなったが」
 つい、恨み言が口をついて出た。
「遅いよ。ずっと、待ってたのに」
「俺も待っていた。こうして迎えに行ける日を、ずっと」
 彼は声を震わせる。
「いつか、この手を取りたい、と思ってた。一人の男として」
「え?」
「だから今日の俺は、死神じゃない。ただの男として、お前を迎えに来た」
 真宮桜、と彼が名を呼ぶ。思わず泣きたくなるような、なつかしい声。
「ひとつ、約束をしないか」
「……約束?」
「また、会おう」
 顔を見ていたいのに、記憶に焼き付けたいのに、涙でかすんで何も見えない。
 返事をしたいのに、彼を安心させたいのに、嗚咽が声をはばむ。
 震える小指と小指をからめた。心もとない、けれど何よりも確かな約束のあかし。
「絶対に、また会おう。どれほど時間がかかっても。形を変えて、全部忘れてしまったとしても」


 いつの日か、誰もが輪廻の流れに帰っていく。
 天寿の果てに人が行き着く世界。空に浮かぶ、大きな赤い輪に乗って。
 あの輪がまわるように、魂も絶え間なくめぐる。

 会うは別れの初め。そして別れは、また出会うための約束──。

 離した手をいつかまたつなぐために。
 ふたりはまた、何度でも別れ道を行く。





「約束」 END 

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