寝台に座って髪を梳かしていると、静かに扉が開いて夜着姿の王騎が入ってきた。湯殿からの戻りらしく、おろした黒髪はまだしっとりと水気を帯びている。手には真新しい木簡がひと巻き握られているが、おそらく王宮かどこかから届いた書簡であろう。
「本日もご苦労様でした。軍の首尾は如何ですか?」
 王騎は摎の隣に腰を下ろし、手にしていた木簡を寝台脇の卓子にぽんと放り投げた。そのようにぞんざいに扱うということは、とうに用済みであり、さして重要な書簡ではなかったのであろう。
「我が軍の首尾はまずまず、と言っておきましょうか。騰が居てくれる御陰で、鍛錬はかなり捗っていますよ」
「天下の王騎軍に入ることを許された選り抜きの兵【つわもの】ばかりですもの。さぞかし鍛えがいのあることでしょうね」
 まるで自分のことのように誇らしげに摎は胸を張る。年若い妻のそのような様子に、王騎はふと目尻を和らげた。
 みずからも秦国六大将軍の殊勲を受け数々の武功を立ててきた摎は、おさない頃から人一倍、兵法戦法にかけては好奇心旺盛だった。王騎の姿に憧れを抱き、その背についてまわるうちに、すっかり彼を質問攻めにする癖が染み付いてしまったようだ。この夜も彼女は、王騎軍の「天地天河において最も過酷な荒行」と称される鍛錬についてもっと訊きたがったが、王騎は珍しくあまり乗り気ではないようだった。
「摎、此方へおいでなさい」
 彼の大きな手が摎の肩を抱く。自然と、鍛え上げられた逞しい肩に頭をあずける格好になった摎は、上目遣いに問いかけるように王騎を見上げた。
「王騎様?」
 ンフフ、と稀代の大将軍と謳われる武将は口角を持ちあげ、鼻にかかった独特の笑い声を出す。
「相変わらず他人行儀な呼び方をするのですねえ、摎。私はもうあなたの夫なのだから、そのように畏まる必要はないというのに」
 王騎の髪からしたたる水滴が顔に冷たい。にもかかわらず、摎の頬はほんのりと染まってでいる。
「……摎はまだ畏まっているでしょうか?」
「ええ。愛する妻に打ち解けてもらえぬ夫というのは、少しばかり寂しいものですよ」
 愛する妻──。その言葉を貰えただけで、摎はもう羽化登仙の心持ちだ。白桃にも似たその頬が、より一層色味を帯びた。
「ですが、摎は子供の頃から今までずっと、王騎様をそのように呼ばせていただいたのです。今更、どのようにお呼びしたらいいのか……」
 王騎は黙っている。声を発さず、口元でにや、と意味ありげな笑みを形作っているだけだ。
「──旦那様?」
 試しにそっと口にしてみる摎だが、彼は片眉をぴくりと動かしただけで反応は薄い。
「──王騎、さん?」
 これも同じく。
 では、これはどうだろう。少々気恥ずかしくて、顔が焼けそうだが、いちかばちか言ってみることにする。
「──あなた?」
 途端に、もう片方の腕が伸びてきて、強く抱き締められた。
 彼の匂い、温もり、夜着越しの隆々とした身体。どれも夢に見るほど恋焦がれたもので、そのすべてを手にした幸福に摎は眩暈さえしそうになる。
「できれば、摎、あなたにはもっと気楽に接してほしいものです。──今のように」
「……努力します」
 明かりを映して摎の瞳は爛々と輝く。王騎はその耳元に、唇を寄せた。
「燭の火を消しましょうか、摎」
 え、と摎は素っ頓狂な声を上げる。意味を理解するまで、瞬きひとつ分の時間を要した。
「それとも、点けたままでも?」
「──そ、それは!」
 燭に点る小さな灯火よりも赤い顔をして、ちぎれんばかりにいやいやと首を振る摎。にわかに身体がほてりを帯びてくる。
「おやおや。摎はいつからそんなに恥ずかしがり屋になったのでしょうねえ?」
 そんな初々しい様子も年嵩の夫にはまた一興。
 王騎のふくよかな唇から、またも愉快そうな笑みが零れおちた。


灯火


#キングダム版深夜の真剣創作60分一本勝負






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