せめて覚えていて


 夏が来ると、思い出す。今となっては遠いあの夏の日々。
 目を閉じれば、蝉の鳴き声にまじって聞こえてくるひそやかな囁き。その声を懐かしむ度に、彼女の小さな手はそっと、チョコレート色の髪を束ねるクリップへと触れる。
 それは、妻となり母となった自分を忘れる瞬間だった。目蓋の裏に今もなお鮮明によみがえるのは、少女だったあの頃の彼女が見ていた景色。目に映るすべてのものが瑞々しく、休む間もなく心ときめかせた日々。
 アリエッティは、胸をおさえる。頬を撫でる風に、あの柔らかな指の感触をさがしながら。
 ──アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ。忘れないよ、ずっと。
「翔。──私、あなたを忘れない」
 せめて覚えていて。二人が忘れない限り、覚えている限り、心の中であの夏は色褪せない。あれからどれほどの季節が巡ったとしても。
「アリエッティー!」
 少し離れたところから、彼女を呼ぶ夫の声がした。アリエッティは、ゆっくりと目を開ける。一面に広がるのは、青く薫り高い夏草。ひょっこりと顔をのぞかせて、ちぎれんばかりに手を振っているのは、スピラーと子供たち。
 アリエッティはゆったりと微笑した。追想を心の奥に仕舞い込み、母の表情になる。
「お母さーん!お父さんが川辺に連れてってくれるってー!」
「早くいこうよー!」
 急かす子供たちの声にほだされて、夏草をかき分けながら、アリエッティは前へと歩み出した。最果てから吹いた追い風が、彼女の背を優しく押した。



end.

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