約束
- 境界 side:R -



 振り返ってみればあの三年間、いつだって側には彼女がいた。とうに過ぎ去った輝かしい年月を振り返るたびに心を見舞うのは、郷愁と慕情と、そして一抹の喪失感。


 自分こそ人のことは言えないが、彼女──真宮桜という人は、あまり感情の起伏を表立って表すことのない人だった。だからまれに見せるその一顰一笑に、いちいち杞憂したり有頂天になってみたりして、忙しなく心を急き立てていた。
 そんな時の自分はきっと元来の性格に反して、いつだって百面相をしていたんだろうな、と思う。今まで生きてきた二十数年間の中で一番、輝いていたころの自分。
 あのころ、倒壊寸前のクラブ棟に住み着いていた高校生の自分は、その日食う分の金にも困窮しているような悲惨な日々を送っていた。
 けれど、いくら生活がどん底にあっても、心はまだ本当の飢えというものを知らなかったと思う。
 ──なぜなら、彼女はいつもそこにいたから。
 毎朝、当たり前のように、彼女に「おはよう」と言えた。
 教室では、すぐ隣に座ることができた。
 困ったときには助けてもらえて、仕事にだって付き合ってもらえた。
 一日の終わりには、じゃあまた明日、と告げることができた。
 あのころ、真宮桜にまた会える「明日」が、まるで約束されたかのように当たり前にあった。
 心が涸渇を知らなかったのは、殺伐とした砂漠にあるオアシスのような、そこにある水のような真宮桜という存在が、手の届くところにいたから。ひび割れそうだった土壌が、つねに潤されていたから──。
 貧乏で惨めで格好悪くて情けなかった。けれどそんな散々な日常に、真宮桜がいてくれた。彼女がそばにいてくれる間は、心が貧しさを忘れてさえいた気がする。


 きっと、あの頃使い果たしてしまった、真宮桜のそばにいられた一瞬一瞬が、人生でいちばんの贅沢だったんだと思う。
 そしてその贅沢をむさぼったつけを、今、自分は償っている──。
 潤いを失って、乾ききった心をひとり抱えながら、そんな気がしている。


 花の芽吹きを告げる花信風が吹いていた。
 卒業式の数日前のことだったと記憶している。あのころ、仕事中にある偶然から、真宮桜の寿命を知ってしまった。
 命数管理簿に記されていた真宮桜の残りの寿命に愕然とした。彼女の寿命はたっぷり残っているはず。そう信じてやまなかったからこそ見ることができたのに、そこに記されるところによれば、
 彼女はあとほんの数ヶ月ほどで死ぬ運命にある──というのだ。
 一体どういうことかと目を疑った。同姓同名の別人では?と思いたかった。だがそれがまぎれもなく彼女その人を指しているのだと知ったとき、身の毛がよだった。これほど恐怖を感じた瞬間は生まれて初めてだった。どうしたらいいのか分からず、すぐさま名誉死神である祖母のところへ赴いた。情けなくも、なかば泣きつくようにしてどうしたらいいかと助けを求めた。
 祖母によると、イレギュラーなことに遭遇したとき、人間の寿命は伸びることも縮むこともあるのだという。真宮桜の寿命もどうやらそのパターンのようで、そのイレギュラーなこととは、祖母が言うところによれば──。
 おそらくは、死神である自分との邂逅。
 死神は意図せず死を呼び寄せることがある。多くの霊と対峙し、この世ならぬものの気にあたり続ける存在だからだ。ゆえに、時として親しい人間の寿命に影響を及ぼすことがあるという。古来死神が人間とのあいだにはっきりと線引きをしてきたのは、そういう事情があったからだ。あの世に属すもの、この世に生きるもの。二つの存在は、本来であれば決してまじわることはない。
 ──その境界線を、越えてしまった。
 すべては死神・六道りんねに出会ったせいだった。本来はもっと生きながらえるはずだったのに、真宮桜の寿命はこんなにも縮まってしまった──。
 あの時祖母が放った言葉は、生涯忘れないだろう。
「桜ちゃんはもともと霊感体質だったわけじゃない。本当は普通の女の子なのよ。だから、あまり幽霊に近寄らせたりするべきじゃなかったんだわ」
「あの子何だかんだ言って、りんねについて何回もあの世に来ちゃってるでしょう。それだけでも普通の人間にはまずいことなのに、現世でも毎日のように霊気にあたっているし……」
 祖母も、今までこうして過ごしてきても何ともなかったために、彼女なら霊気にあたっても影響を受けることはないのだろう、と思い込んでいたそうだ。
 自分もそうだった。いや、むしろなお悪かった。死神の仕事に付き合わせることでよもや彼女に弊害が及ぼうなどと、考えたことすらなかった。そのうえおこがましくも、真宮桜がそばにいてくれることが日常茶飯事なのだと、当たり前のようにこの日々がこれからも続いていくのだと、いつしか何の疑いもなしに思うようになってしまっていた──。
 なんて身の程知らずだったのだろう?なんて無知だったのだろう?生まれて初めて自分を心の底から呪いたくなった。そばにいることで刻々と彼女の命を吸い取っていた。なのに、それに気付いてすらいなかったとは。
 彼女のことを守っていたつもりでいたのに。
 それどころか、逆に死に追いやっていた──。
 その事実にただ、目の前が真っ暗になった。
「俺はこのまま、彼女をみすみす死なせることなんて、できない──!」
「りんね、落ち着きなさい。取り乱しても、何の解決にもならない」
「だが、俺のせいで彼女が!真宮桜が死ぬなんて、嘘だろう!?おばあちゃん、そんなこと……」
「りんね!」
 祖母が目を覚ませと頬を強く打った時、悪夢ならほんとうにこれで覚めてくれと、切実に願った。けれど痛む頬を片手でおさえて崩れ落ちたとき、それは全て、まぎれもなく現実なのだと思い知った。悪夢にうなされた子どものうわ言のように、助けてくれ、と誰かに向けて繰り返すことしかできなかった。
 真宮桜を、どうか助けてくれ──。
 それ以外はなにひとつ言葉にすることができなかった。


 蛙の子は蛙というが、ならば蛙の孫も所詮は蛙、なのだろう。血は裏切らないものだ。
 祖母の轍を踏むことを選んだ。祖母と同じように、人間に想いを寄せてしまった。その人間の魂を現世に留め置くためなら、どんな無茶でも押し通してみせると思った。
 名誉死神の殊勲を得ている祖母の伝手を利用して、関係各所に根回しをした。あれほど模範的な死神だった自分が、堂々と不正を働いたのだ。
 奔走の甲斐あって、真宮桜の寿命をもともと定められていた命数までのばすことに成功した。その対価としてこの先、通常の死神業務のノルマの二十倍をこなすことを、死神界と約束した。祖母の時よりもペナルティは二倍も苛酷さを増していたが、彼女の寿命さえ元通りにできるなら、そんなことはどうでもよかった。後先を考えている場合ではなかった。
 こうして、かつて祖母がしでかした所業とまったく同じことを、孫である自分もまた繰り返すことになった。
 けれどひとつ、祖母とでは決定的に違うことがある。
 ──最終的に、自分は祖母が進んだ道とは対局の道を選んだのだった。


 卒業式の日。
 最後の思い出に、せめて積もり積もった思いの丈を伝えることができればと思った。
 けれど向かい合うと結局、押さえ付けていた想いがこみ上げてくるのに、胸がこんなにもいっぱいなのに、なにも言葉にできなかった。
 出会ったころと変わらないおさげを、吹きぬけた柔らかな風に揺らして、「卒業おめでとう」と目の前で微笑む彼女を見つめているだけで、もう充分だと思った。貼り付けた無表情の裏に、あふれそうな気持ちをすべてひた隠して。
 小さな手を取ろうとして、手を伸ばしかけた。けれど、その資格がないことを思い知り、震えるほど拳を固く握りしめる。真宮桜は目の前にいるのに、もうはるか遠い存在だった。
「まだ、しばらくはあのクラブ棟にいるんだよね?」
 ああ、と頷く。うまく嘘をつけていることを願いながら。
 よかった、と真宮桜は安堵の表情を浮かべる。
「じゃあ明日、卒業祝いのごちそう持って来るから。一緒に食べようね」
 その笑顔が、いつになく心の琴線に触れた。今日を限りにもう、こうして彼女の目の前に立つことはないのだ。言葉を交わしたことも、同じ時間を共有したことも。すべては二度と戻らない追憶でしかなくなってしまう。急にその現実が迫ってきて、胸が押しつぶされそうになった。
 自分のせいで生命の危機に瀕していたことも知らず、変わらない真心を向けてくれる、真宮桜。
 ──どこかで生きていてさえくれていれば、それでいい。
 心優しいこの少女に、それ以上何も求めることができないと思った。
「じゃあ、また明日」
 真宮桜はそう言って、晴れやかな笑顔で去っていった。いつも耳元を風のように優しく過ぎった言葉が、その日は矢じりとなって心に深々と突き刺さった。なぜなら自分は知っていたからだ。彼女の言う「明日」が来ることはなく、その卒業式の日が、自分と彼女の分岐点となることを。


 あの日以来、真宮桜とは道を完全にたがえて生きるようになった。
 彼女の来るクラブ棟からも、彼女のいるあの三界の街からも、誰にも告げずにひっそりと姿を消した。かつてあれほど拒んだ死神界で、生きていくことを選んだから。
 交わした約束のもと、この先死神として激務をこなさなければならない自分は、始終霊気に取り巻かれて生きていくことになる。そんな自分のそばにいる限り、真宮桜は彼女にとっては毒である、霊気にあたり続けることになる。
 自分はすでに一度、彼女を失った──。そう思うことにした。もう二度と、失うわけにはいかなかった。あんな思いを二度も味わうのは耐えられない。
 真宮桜を守るためには、そうするしかなかった。徹底的に二人の間を境界で隔てるしかなかった。姿を見せてはいけない。近づいてはいけない。話し掛けてはいけない。存在自体を悟られてはいけない──。
 この境界が、真宮桜を守る。
 たった一人、自らの人生を捧げても惜しくないと思えた人を。
 自分自身にそう言い聞かせることが、唯一の救いだった。そしてそうすることで、境界の向こう側の彼女を想い続けると決めた。


 真宮桜との別れ道に踏み出した自分を、想像以上の苛酷な日々が待ち受けていた。卒業以来、息つく暇もないほど仕事に追われて奔走するようになった。
 ノルマ二十倍のペナルティの飛び火を受けることを恐れたのか、ろくでなしの父親が身の周りをうろつくことはぱったりとなくなった。同時に、しつこかった借金返済の督促も来なくなった。
 一度だけ、仕事の途中に鳳に出くわしたことがあった。疲れきった自分を見て目に涙を浮かべながら、ノルマをこなす手伝いをさせて欲しいと言われたが、断った。これは自分が全うするべき仕事であり、誰かと分かち合うものではないし、そうしたいとも思わなかったから。
 どうしてそれほどまでに自分を追い詰めるの、と鳳は訴えかけてきた。確かにあの頃、自分で自分を袋のネズミに追いやっていたかもしれない。けれどその辛さの中に、一抹の喜びがあった。──働いて身をすり減らすほどに、鎌を振る手が重くなるほどに、真宮桜の命の重みが泣きたいほどに感じられる。それは、一度は失いかけた大事な重みだ。その重みを感じることができる喜びを、誰に分かってもらおうとも、誰と分かち合いたいとも思わない。きっと自分にしか分からないことなのだから。
「本当に、桜のことが好きなのね」
 寂しそうな、しかし吹っ切れたような顔で、鳳はそう言っていた。
 鳳とはそれ以来会うことはなくなったが、彼女の言葉は心に留まり続けた。自分でさえも口にすることのできなかったその言葉は、彼女の命の重みと相まって、あまりにも重く感じられた。その重みは時に心を奮い立たせ、時に痛みともなった。


 無理がたたって仕事中に倒れたことがあった。死神界に来てから借りたはいいがろくに帰ってすらいなかったアパートで一人寝込む自分に、駆けつけた祖母は、彼女に会いに行きなさい、と言った。
 真宮桜を守るためにも二人の間に境界を、と覚悟を決めた以上、それはできない。とはいえ、弱っていた心はもろく揺れていた。正直、限界だった。虚勢をはって自分をごまかしても、現実はあまりにも過酷だった。真宮桜に会えない日常は、寂しく、虚しかった。
 そんな自分に祖母は、彼女のところへ行く口実をくれた。悪霊が彼女の周りにいないか確かめるためにも、様子を見に行ってきなさい、と。それでもしばらく迷ったが、結局はその口実に飛びついて、数ヶ月に一度は彼女のもとへと赴くようになった。
 つかの間でも、元気に過ごしている真宮桜の姿を見れるようになったことは、驚くほど心に安らぎをもたらした。そして、そのささやかな幸せを噛み締めるたびに、心の中ですまないと彼女に謝った。みずからが彼女にもたらした災いと、それでも執心を捨てられない未練がましさを、詫びるように。
 大抵は何事もなく帰路につくことが多かった。けれどごくたまに、彼女の背後に霊がいるときがあった。そんな時には彼女に気づかれないようにこちらへおびき寄せたり、彼女自身が霊に話しかけている時には、少し離れたところからその霊が悪霊化しないかを見守った。
 そうしていくうちに、徐々に彼女の周りを取り巻く霊の数は減っていった。彼女が大学を卒業する頃には、なぜかもう、彼女に近寄る霊すらいなくなっていた。
 ──真宮桜は霊感を失ったのだ。
 理由は分からない。ひょっとすると彼女が大人になり、神隠しの時あの世で食べた飴の効果が消えたのかもしれない。
 肝心の霊が真宮桜の周りに寄り付かなくなったので、そうして様子を見に行く名目は消え去ってしまった。それでも時折彼女に会いに行くのを、やめることはできなかった。


 会いに行くごとに、真宮桜はつぼみが開花していくかのように綺麗になっていた。
 そんな彼女を遠目から見つめるたびに、出会った頃の少女の面影が少しずつ薄れていっているような気がして、この世の時の流れる速さに焦燥した。
 花にたかる羽虫のように、彼女に言い寄る男達が後を絶たなかった。そのたびに苦々しい思いを抱いて、どうしようもない自分の立場を少し虚しく思った。
 

 やがて、彼女はそんな男達のうちのひとりの手を取った。
 結婚式の日、自分は高らかに鳴り響く教会の鐘のすぐそばで、純白のウエディングドレスに身を包んでひかえめに微笑む彼女を見おろしていた。六月の梅雨晴れの空は高く、いつもよりもずっと地上が遠く感じられた。
 少女から大人の女性になり、幸せを胸いっぱいに抱えて笑っている真宮桜は、くやしいほど綺麗だった。知らない男と永遠の愛を誓い合う彼女を見つめながら、胸が、かつてないほどに痛んだ。
 真宮桜の手から離れた白い風船が、ふわりと宙を漂い、自分のすぐそばを通り過ぎていく。風船の行くすえを見つめる彼女の視線は、一度確かに風船の軌跡をたどって自分の顔のそばに向けられたが、すぐに逸れた。
 目が合うかもしれない、と淡く期待して自嘲した。彼女はもう、とっくに霊視のちからを失ってしまったのに。
 バージンロードに桃色の花吹雪が舞う。愛する人と腕を組みながら、祝福をたたえる人たちの間をゆっくりと進む真宮桜。
 よかった、真宮桜は幸せに生きてくれている。人としての幸せを掴んで、今、こうして笑っている──。そう思うと、闇の中に一寸の光が見えた。
 けれどそのかすかな光も、あっという間にかき消えた。感極まった花婿が、花嫁を軽々と抱き上げて、額にキスをしたのだ。驚いた顔をしている真宮桜。いたずらっぽい顔をして、彼女の額に額を寄せる花婿。その行為に思わず、呼吸を忘れる。耳からは音が遠のき、目の前が真っ暗になった。
 自分はいったい、ここで何をしているのだろう。
 ここにはもう、居場所などないのに。
 一枚の絵画のように美しいその光景は、天と地ほどに遠すぎて、とても手が届かない。
 ──もう、会いに来るのはやめよう、と思った。
 高らかに鳴り響く教会の鐘に背を向ける。沸き立つ参列者の祝福に耳をふさぐ。逃げるように空を飛べば、風が容赦なく頬を打ちつけた。この世の何もかもが自分を嘲笑っているような気がした。その全てを振り切って、彼女のいない死神界を目指す。
 これが境界なのか。永遠に越えることのできない、二人の間の──。
 ふと気づけば、地平線に落ちる夕陽のように赤い血の涙が、頬を伝っていた。


 しばらくの間、憔悴してうつろな日々を送った。真宮桜の掴んだ人としての幸せを喜ばしく思いたいのに、素直にそう思えない自分に心底嫌気がさした。愚かな自分を罰するように、より一層仕事に打ちこんだ。何かに集中していないとおかしくなりそうだった。
 それでも心が落ち着いてくると、また懲りもせずに彼女に会いたくなった。どうしても一目姿を見たくて、いけないこととわかっていても、我慢がきかなくなり、数年後にまた彼女のもとを訪ねていった。
 真宮桜によく似た男の子が、家を出てひとりでどこかに向かっていくところだった。道中にはたちの悪そうな霊が何体かいて、凶暴化しそうになるとそのつど、鎌で浄化した。四体目を浄化したとき、ふいに子どもがくるりと振り返った。
 心臓が止まったかと思った。子どもは目を逸らさずに、じっとこちらを見ていた。褐色で少しくせのある髪や、何もかも見透かすような視線が、真宮桜によく似ていた。
「だれ?」
 小首を傾げて尋ねる子供。見えるのか、と聞くと、頷いた。
「ぼく、幽霊が見えるんだ。ママの小さいころとおなじ」
 子供が得意気に笑う。その笑顔にちらつく彼女の面影が懐かしい。心かき乱されそうになり、今すぐその場から逃げ出してしまいたかった。しかし、続く言葉が金縛りとなる。
「ぼくはね、──リンネっていうんだ。お兄ちゃんの名前は?」

 リンネ?

 心を過ぎったのは、ジューン・ブライドのあの日、真宮桜が浮かべた幸せそうな笑顔。空の高みから見下ろした、一枚の絵のような光景。自分のことなど、きっともう覚えてすらいないと思ったあの日。
 なのにこの子は今、何と言った。なぜ、彼女の子供がその名を。
「──どうして、」
 無意識のうちに言葉がこぼれた。それを聞きつけた彼女の子供が、はにかむように肩を竦める。
「リンネってね、ママが一番、大好きなことばなんだって」
 膝から力が抜けた。肩と手が震え、鎌を持っていることさえままならない。
 どうして震えているのだろう。嬉しさゆえか、哀しみゆえか、はたまたその両方か。分からなかった。ただ、どこかへ消えてしまいたいと思った。誰もいないところで、声を上げて、思いきり泣いてしまいたい──。
 突然膝をついた自分の顔を、心配そうに子供が顔をのぞき込んでくる。目を合わせることができない。その目はあまりにも、彼女の目と似通っていた。
「──いいか。ここで俺に会ったことは、誰にも言うんじゃない」
「えっ?どうして?」
「絶対にだ。特に、きみの、お母さんには」
 渾身の力を込めて立ち上がる。まわりに浮遊している悪霊を、ずっしりと重い鎌を振り上げて、一薙ぎで浄化する。わあ、と子供が歓声を上げる。振り返りもせずに、逃げるように飛び立った。
 彼女の子供が呼ぶ声が、胸を深くえぐった。


 夕暮れどきの、既に誰もいない公園の砂場にうずくまる。子供達が残していった砂の城をぼんやりと見つめながら、過ぎ去った日々を思い出していた。いつだってそばには真宮桜がいた、人生で一番の贅沢にひたっていたあの頃を。
 追憶はあまりにも鮮明で輝かしく、目を閉じればそこに彼女がいるような気さえする。
 たとえばそう、すぐ後ろに──
「──六道くん、だよね?」


 耳元で悪魔が囁いた。このままその手を掴んで離さずに、二人でどこかへ逃げてしまおうか、と思った。
 けれど細い手首を掴んだ瞬間、その血潮の通ったあたたかさに、我に返った。もう二度と彼女を失うことのないようにと、あの日みずからが二人の間に引いた境界線を、飛び越えるその寸前で。
 死神界と約束したノルマはまだ終わっていない。やるべきことは山ほど残っている。それに、一体どこに逃げるというのだろう?どこへ行こうが、その命の重みからは逃げられないというのに。
「わ、たし、──子どもを迎えに行かなくちゃ」
 困ったように揺れる彼女の声。夢にまで見たその声に、自分の心も揺れる。
 この手を離したくない。
 けれど今、ここで連れ去ってしまえば、真宮桜の掴んだ人としての幸せを奪ったことを、きっと死ぬまで後悔して生きることになる──。
 死神の旅路へ道連れにするわけにはいかない。人として生を受けた以上、真宮桜は人として生きなければならない。妻として、母として、現世で生きていくべき存在なのだから。


 どうか振り向かずに、前を向いて。一瞬一瞬を大切に、精一杯に歩んで生きてくれ。
 笑って泣いて、嬉しいことも悲しいことも十分すぎるほど知り尽くして、与えられた天寿をまっとうしてほしい。
 そして辿り着いたその天寿の果てで、きみがひとり行き止まってしまったあかつきには、
 ──この境界を越えて、きみを迎えに行く。
 さまよえる霊魂を輪廻の流れへ導く死神としてではなく、ただただ愛する人に手を差し伸べたいと願ってやまない、ひとりの男として。




end.

 
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