あなたを愛さない


「俺と逃げよう、マヤ」
 助手席に膝を抱えて座るマヤに、速水は切羽詰った口調で告げた。マヤは唇を引き結び、断固として首を縦に振ろうとしない。薄暗い車内では、表情をしかと窺うことはできない。
「無理ですよ。速水さん」
 きっぱりと言い切ったマヤに、速水は眉を寄せる。
「なぜだ」
「……あたし、そんな覚悟ないですから」
 膝の間に顔を埋めて、くぐもった声でマヤは言う。
「あたしと逃げるために、速水さんは何もかも捨てるつもりなんでしょ。大都芸能も、速水の家も、地位も財産も全部。……あたしって、速水さんにとって、それほどの価値があるものですか?」
「ある」
 決然とした声で速水は即答した。運転席から身を乗り出して、マヤの手を取る。振り払われそうになると、指を絡めて強く握り締めた。驚いて顔を上げたマヤの瞳を、速水は矢を射るかのように見詰める。
「俺は何も惜しくない。お前が手に入るなら」
 瞳の底にあるものを探り合うかのように、二人は見つめ合った。幾つもの車が傍らを通り過ぎ、ライトが二人の顔を灯しては去っていった。
 やがて、フロントガラスを夜雨が打ちつけ始める。ガラスを流れる雨露の影が、マヤの頬を黒く流れ落ちた。彼女の瞳には、涙の一滴も浮かんでいない。
「……速水さん、ありがとうございます。今の言葉でやっと覚悟がつきました」
 マヤは静かに告げた。速水は息を呑む。端麗な面に喜色が広がるのを、顔色一つ変えずに見つめながら、
「あたし、速水さんとは行けません」
 稀代の女優は「北島マヤ」を演じる。
「……速水さん、あたしはあなたを愛さない」
 呆然とした表情の速水をマヤは目を逸らさずに凝視し続けた。青白い頬を、幾筋もの黒い影が流れ落ちていった。



end.


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