命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも - 9 - | ナノ

命をし全くしあらば球衣のありて後にも逢はざらめやも 9
R-15


 空に赤みが滲み出した頃、犬夜叉は深い眠りから覚醒した。身を起こしてみてから、唐突にぎくりと肩を強ばらせる。
 薄障子の向こう側から透けた赤い夕日が、座敷の中まで格子状になって差し込んでいた。その僅かな光すら目に眩しく、犬夜叉は慌てて袖で顔を被う。いつも褥の側に置いてあるはずの面がなかった。
「犬夜叉、大丈夫?」
 犬夜叉は大きく肩を揺らした。かごめが座敷の隅の方で、般若面を手にしながら、目を丸めて彼を見つめていた。かごめの顔には赤い夕陽が降り注いでいた。犬夜叉は眩しそうに目を細めながら、彼女に手招きをする。
「なに?」
「……面を」
「あ…ごめんね。ちょっと見てただけなの」
 かごめは少し肩を竦めながら、微笑んだ。立ち上がって犬夜叉の枕元まで歩み寄ると、枕元に腰を下ろし、「はい、どうぞ」と面を差し出す。犬夜叉はそれを無言で受け取ると、いつものように青白い顔を覆おうとしたが、ふとかごめの食い入るような視線を横顔に感じて、彼女に視線を流した。
「……何だ?」
 かごめは口を開きかけて、閉じた。そしてまた何かを言おうとして、また言葉を飲み込んだ。そうして何度も同じことを繰り返す。犬夜叉はじっとその様子を見守った。
 かごめの唇がぶるぶるとわななく。大きな瞳には溢れんばかりの涙が浮かび、彼女が瞬きをすると、大粒の滴が白い頬から転げ落ちた。
「──あんたの顔、久しぶりに見た…」
 震える手を伸ばして、かごめは犬夜叉の青白い頬に指先を滑らせた。頬から顎にかけての輪郭を、なぞるように触れる。その指先はただ柔らかかった。意識するより先に、犬夜叉の目蓋は静かに下りる。
「つらかったでしょう。ひとりぼっちで、こんなに長い間…私のせいで……」
 細い両腕に、頭を抱き締められる。その腕の温もりと柔らかさに、犬夜叉はそこでしか得られない安寧を知る。そしてそれを知ったとき、暗夜に遮られた心の裡で、遥か遠い日の記憶の一齣が静かにはぜた。

 ───側に居させて。

 その言葉だけが心の拠り所だった。
 孤独はもう終わったと信じていたのに。
 ……それなのに、なぜ行ってしまったんだ。

「犬夜叉」
 かごめの声によって、意識は目の前の現実へと引き戻される。落陽は座敷を赤く染め上げている。白い衾の一番上に重ねられた、色褪せた火鼠の衣を、犬夜叉は見下ろした。
「───命をし全くしあらば珠衣の……」
「……え?」
「…ありて後にも逢はざらめやも」
「なに?それ……和歌?」
 小さな声で口ずさむと、かごめがそう聞き返してきたが、犬夜叉は微吟した後口を噤んだ。かごめの涙の雫が頬に落ちると、彼は彼女の背に震える腕を回した。
 力を込めれば小枝のように容易く折れてしまいそうなほど、華奢な身体だと思った。壊れてしまわないように、けれどもう離さないように抱き締める。離せばまた、彼を置いてどこか遠くへ行ってしまうような気がした。
「行かないでくれ、……かごめ」
 細い声で彼がそう訴えかければ、かごめは鼻を小さく啜って頷き、犬夜叉の額に頬を寄せた。
「……行かないわ、どこにも。もう二度と犬夜叉をひとりにしない」
 決然とした声だった。


 落陽が西の果てに消え、夜の帳が降りると、二人は始めて情を交わした。運命の巡り合わせた邂逅と離別から五百年。ひと度交わると、こんなにも長きの時を離れて過ごしていたことが、嘘のようにさえ思えた。
 微かな月光に照らされ、彼女の肢体は唯々幽艷に彼の劣情を煽り、狂おしい衝動を齎した。果てた後にも長く尾を引く陶酔に、二人の背筋に切ない震えが走る。同時に顔を背けて、眦にほとばしった涙を隠した。
 犬夜叉は一糸纏わぬ姿の自分達に火鼠の衣を掛けると、隣に横たわるかごめの胸元に耳を当て、心音を聞きながら眠りについた。いつまでもその音色を聞いていたいと思った。
「……私、これからは、ずっと犬夜叉の側に居るから」
 記憶と重なる声を、犬夜叉は微睡みの中で噛み締める。
 記憶はまだ僅かにしか取り戻せていない。だが今は、それでもいいと彼は思った。彼女を失った過去よりも、彼女のいる現在の方が、大事に思えてしかたがなかった。





To be continued 

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