約束 | - 理由 side:S - (※捏造未来、切なめ注意) Tell me the reason why you left me. ------------- 太陽が焼けている。夕焼けがちりちりと音がしそうなほどに、空を、街を、目に見える景色を焦がしている。 いつもと同じ道、同じ時間、近くて遠い赤い太陽に飲み込まれそうになりながら、今日も私はここを歩いている。 向かい側からやって来た犬の散歩をしていたおじいさんや、ランドセルを背負った子供たち、仕事帰りのサラリーマンのおじさんが、太陽を背にして私に会釈をしていく。私も愛想笑いを浮かべて、小さく頭を下げながら彼らのそばを通り過ぎる。 そうしていつも数歩歩いたあとに、私はふと立ち止まる。 ゆっくりと後ろを振り返り、通り過ぎていった人たちの、たった今別れを告げた人たちの、赤い夕日に呑み込まれていく背を見つめる。 こういうのを、一期一会の出会いと呼ぶのかもしれない。 もしまたどこかで会えたとしてもきっと、お互いに顔すらも覚えていないだろうから。 次に歩みが止まったのは、児童公園の入口。ふと投げかけた視線の先にあるものを見て、私はしばらくのあいだ、呼吸の仕方を忘れたかと思った。 砂場のふちでじっと、うずくまっている少年の姿。見覚えが、ある。 それはまぎれもなく、かつての同級生の後ろ姿だった──。 前のめりになって少し丸まった背と、風でかすかに揺れる赤い髪。こちらからはそれしか見えなかった。けれどその二つが、その少年が「あのひと」だという、何よりの証だった。 心臓が、どきりと高鳴る。呼吸が、普段よりも一拍子遅れる。まるでその公園の入口に、立ち入ってはいけない場所を守るしめ縄がめぐらされてあるかのように、私の足がたちどころに竦む。自分がこんなに臆病者だったなんて知らなかった。 けれど再びその後ろ姿を視界におさめたとき、何かを考えるよりも早く、身体が動き出していた。 おそるおそる踏み出したはじめの数歩が嘘のように、しだいに駆け足になった。 「──六道くん、だよね?」 背後からそっと声をかけると、彼の肩がびくりと揺れた。とても懐かしい顔が、驚きをたたえてこちらを向く。食べごろの柘榴を思わせる、こぼれ落ちそうな赤い瞳。瞬きも忘れて私を見ている。高校生のときからまるで彼の中で時が止まってしまったかのように、その姿に大きな変化は見られない。強いて言うならば、ほんの少し背が伸びたかもしれない、というくらいだ。 懐かしかった。けれど同時に、なぜだろう、ほんの少し胸が締め付けられて、切ない。 「……久しぶりだな」 六道くんは素っ気なくそう言ったきり、視線を無人の砂場へと戻した。子供たちの残していった小さな足跡や、誰かが忘れていったショベルが砂にまみれているのを、感情の読めない目で見つめている。 会話が呆気なく途切れてしまったので、私はどうしたらいいのか分からなくなった。今にも言葉があふれ出そうだった。でも喉の奥で塞き止められてしまったように、一向に会話を切り出すことができない。 気を紛らわすように、六道くんの出で立ちに意識を傾けた。彼が着ているものは、高校の時にいつも着ていた洗いざらしの中学ジャージではなかった。柄のない黒い着物。脱いで腕にかけている羽織は昔と変わらない。 あの頃ほど生活に困っている様子はなさそうなので、心の底からほっとした。おかげですんなりと、つかえていた言葉がこぼれ出した。 「驚いたよ。まさか、こんなところで会うなんて」 「ここに子供の悪霊が隠れているから、出てくるまで待っているところだ」 「そうなんだ。いまも死神の仕事、やってるんだね」 「まあ、な」 それから、また居心地の悪い沈黙が場を支配した。私は自分の中で、高揚感が急激に冷めていくのがわかった。 思えば彼は、高校卒業と同時に忽然とあの三界の街から姿を消してしまい、以来全く音沙汰がなかったのだった。放課後のあの秘密めいた死神の仕事を、三年のあいだ分かち合ったかけがえのない仲間だと、私は思っていたのに。やっぱり彼にとって、私は所詮ただの金づるしかなかったのかもしれない──。何も言わずに消えた彼の水臭さに、あの頃の私は心底がっかりしたものだった。 無言の背から放たれる拒絶感が、とても悲しい。今もひょっとして、私は招かれざる客のようなものなのかもしれない。そう思うと、──寂しかった。胸が苦しかった。 本当は、ずっとこの人に会いたかった。 ずっと、ずっと聞きたいことがあった。 けれどこんな風に拒絶されては、それも叶いそうにもなかった。 この人に疎ましく思われることだけは、耐えられない。 「……邪魔しちゃ悪いし、帰るね」 ぽつりと呟いて、踵を返そうとした。 待て、と切羽詰ったような声が耳を過ぎり、 ──何が起きたのか一瞬、わからなかった。 ゆっくりと後ろを振り返った。彼に手首をしっかりと掴まれて、私はそれ以上先に進めなかった。 赤い目が私を見ていた。溶け出した太陽やくすぶる炎と同じ、見るものを焼き尽くすような目が、私のことをじっと見つめていた。 掴まれた手首が焼け付くかと思った。逆に顔からは、血の気がみるみるうちに引いていくのが分かった。──放して、放さないで。矛盾したふたつの感情が胸の内でせめぎ合い、唇がぶるぶるとわなないた。 「わ、たし、──子どもを迎えにいかなくちゃ」 声が情けなく上擦ったのを、彼は一体どう思ったのだろう。かつての同級生は、相も変わらず掴みどころのない顔をして、視線をふっと足元に落とした。 もう視線はかち合ってはいないのに、目蓋に焼き付けられた彼の目の記憶から、私は逃げられずにいた。 ずっと、待ち焦がれていた目だった。 それなのになぜ、私は拒絶してしまったのだろう。 「──そうか。悪い」 ぽつりとこぼれおちる言葉。そっと解放された手首を、私はもう片方の手でさすった。火傷でもしたかのように、ひりひりした。けれど怖々と視線を落としてみても、手首にはなんの異常もない。火傷どころか日焼けも、かすり傷ひとつさえもない。 深く俯いたままの彼の背が、やけに小さく見えた。 呼吸を整えて、私は遠慮がちに訊く。 「あの。──もうしばらくこの街にいるの?」 「……」 「高校の頃のみんなで、同級会でもしない?ほら、翼くんとか、リカちゃんたちも呼んで、」 私はつとめて明るくそう言いながらも、それが空虚で叶うあてのない絵空事でしかないということを、知っていた。目の前で蹲ったままの少年は、もう決してあの輪の中へ戻ってくることはないのだろう。 ──そして私の隣にも。 長い沈黙ののち、彼は顔だけでゆっくりとこちらを振り返った。 私を見上げて、学生時代ですら滅多に見せてくれなかった、穏やかな目をして微笑む。 その優しい微笑みを見て、私は形振り構わずに泣いてしまいたいと、心から思った。 「変わったな。真宮桜」 けれど、もう泣けない。涙が出ない。無理矢理笑ってみると、声だけがかすかに震えた。 「私、もう、真宮じゃないよ」 「それも、そうだ」 変わった。そう、人間は変わる生き物だ。生を受けた時から時の流れに身を置く私たち人間が、時の流れに抗えるはずがない。 そうして人間が流転することを、もしかすると彼は疎ましく思ったのかもしれない。私たち人間は、永遠にも近い時を生きる死神の彼らとは、決して同じ流れを下ってはゆけないのだから。 私の背後から差し込む夕陽にむけて、眩しそうに目を細める少年を見おろした。 別れが急に、名残惜しくなった。聞いてはいけない質問を、つい口にしてしまう。 「またいつか、会える?」 六道くんは、さあな、とだけ言った。さっきからそればかりだね、と言い返すとフッと静かに笑う。 それから、私の背後にある時計台に視線を移した。 次にまた私を見つめたとき、その燃えるような色をした目には、やはり何の感情も宿ってはいなかった。 「行かなくていいのか。子どもの迎え」 「──あ、いけない」 振り返って同じように時計台を見上げると、子どもの迎えの時間が迫っていた。途端に、胸が金槌で打たれたように痛んだ。もっと話していたかったのに。もっともっとそばにいたかったのに。 今度こそ涙がこみあげてくる。唇をかみしめながら、振り返った。 「あれ──?」 ざあっ、と一陣の風が砂埃を巻き上げる。 そこにはもう、誰もいなかった。 子どもの手を引いて帰路につく。 藍色の空に瞬く一番星を指差しながら、ふと思った。 砂場に隠れていた悪霊の話。あれは、嘘だったのかもしれない、と。 真っ当な死神である彼が、無防備な子どもたちのたむろす公園にひそんでいるという悪霊を放り出して、どこかへ行ってしまうはずがないから。 「──ねえ。どうして、あそこにいたの?」 子どもが独り言を聞きつけて、不思議そうに首をかしげた。母の顔を貼り付けて、ただ曖昧に笑ってみせた。 星が、太陽が、こんなにも遠い。もう何もかも燃やしてくれればいいのに、灰にしてくれればいいのに。さよならすら言わせてくれなかった薄情な背を、目蓋の裏に思い描く。 子どもの掌がやけに冷たく感じられた。いま、ここにいる、という実感が湧かない。自分がどこを歩いているのかすら、わからない。おそろしくなって、しゃがんで子どもを抱き締めた。私譲りのくせのある髪からは、太陽の残り香がした。 私は、何をしているんだろう。なぜ、隣に彼がいないんだろう。 ──六道くん。どうして私を置いて、行ってしまったの。 end. back |