暁のヨナ | ナノ


▼ 火焔 【スウォン+ヨナ】


 拝謁の承認を得た侍従が返事をする。大山を動かすかのように重々しい音を立てて、玉座の間の扉が開いた。
 次第に、隙間から差し込む光が存在感を増していく。磨き抜かれた床がそれを照り返して眩しく輝きを放った。若き国王スウォンは玉座から立ち上がり、待ち望んだ存在が目の前に現れるのを見守っている。目映い朝日の中には、燃え盛る火焔を背負い立つかのような、赤い髪をもつ皇女の姿があった。
「お待ちしていましたよ。ーーお帰りなさい、ヨナ姫」
 皇女はやや俯き加減に、自分の背後から伸びる光の行方を視線でなぞっていく。やがてスウォンの待つ上座に焦点が合うと、苦渋に満ちた面持ちをして、唇を強く噛んだ。王はその挑発の眼差しを静かな微笑みでもって受け止め、待ち人の傍に寄るために階【きざはし】を下りる。
 王冠から垂れ下がる玉簾が彼のゆったりとした歩調にあわせて、その澄んだ瞳の前で揺れている。公式の場で儀礼的にのみ用いてきた冕冠を今スウォンが頭に戴いているのは、王国の主君たる者としての威光を示しつつ、高貴の血を継ぐ王家の娘に、衣冠を正すことで礼を尽くすためである。まずは皇女の目に揺るぎない国王の姿を印象付けておきたかった。それが済んだならば。
「この緋龍城はあなたの家。もう二度と、あなたを追い出したりしないと約束しましょう」
 若き国王は、縁取りの刺繍の華やかな長袖の下からそっと、女のように繊細な白い手を伸ばした。得がたい至宝に触れるかのごとくかすかに震える指で、先王の忘れ形見である皇女の存在を確かめようとする。
 途端、力なく伏せられているように思われたヨナの目が、警戒心も顕に険しく吊り上がった。ひ弱な囚われの小鳥が、今から狩りに出んとする鷹に豹変したかのようだ。恐れをなした彼は、火に触れた熱さにその手を素早く引っ込める。身も凍るように恐ろしい、だが同時にその眼差しは雄々しく美しく、彼の征服欲をこのうえなく駆り立てる。軍神と称された父ユホンから受け継いだ猛将の性を、あたかも国盗りを目前に控えたかのように、この皇女は激しく燃え立たせるのだ。
「それ以上、私に近付かないで」
「ヨナ」
「私の名を呼ぶことも、してほしくない。あなたには」
 皇女が指差す先は、かつては王の叔父のものであった席。皇女はその目に深い哀しみを湛える。
「あなたが今まで腰掛けていたその玉座は、あなたが力なき先王から力づくで奪ったもの。私の大切な父上を無惨な骸に貶めてまで、あなたが得たかったもの。その座り心地は、いかがなものかしら?」
 王はかぶりを振る。視界を遮る簾が邪魔で、頭に戴く王冠をとった。
「ヨナ姫、あなたに許しを乞うつもりは毛頭ありません。これまでも、そしてこれからも、私は自分が過ちを犯したとは思わないのですから。ーーですがこの私が、国王殺しの罪、叔父殺しの咎を、忘却の彼方に葬り去ったと云うわけでもありません」
 ヨナは胸元に手を差し込み、無言で花細工の簪を取り出した。スウォンにとって、十分すぎるほどに見覚えのある品であった。とうに踏みしだかれたか、打ち捨てられたものとばかり思っていたものだ。不謹慎かつ場違いであると知りながらも、胸が愛おしさに甘く満たされる。
「その簪、まだ捨てずに持っていてくれたのですね。ーーちょうどいい。きっと、誂えたように大礼服によく合うでしょう」
「何ですって?」
「あなたのために仕立てた、花嫁衣装です」
 皇女の瞳が心もとなく揺れる。だがそれはほんの一瞬のことで、あるいは王の錯覚であったかもしれない。
「昔からあなたの衣装を縫ってくれた、腕のいい針房の女官がいたでしょう?あの者に頼みました。赤と金の糸をたくさん使った、美しい晴れ着に仕上がりましたよ」
「……何のために?」
「何のため?もちろん、大礼式のためです。婚礼と冊封の儀式を行うために仕立てた祭服ですよ。ーーヨナ、私の王妃におなりなさい」
 皇女の顔色は変わらなかった。激しく動揺し、気色ばむものと身構えていただけに、王はやや拍子抜けする。これほどに掴み所のない相手ではなかった筈なのに。
 何かしらの反応が欲しい。もう一度、言うことにした。
「あなたは私と婚礼を挙げ、高華国国王の后になるのです。王妃冊封に関しては、既に戒帝国や近隣諸国の知るところですから、近く、正式に賓客を招いて式典を行うことになるでしょう」
「冗談でしょう?」
「冗談などではありません。私は、ヨナ、あなたを妻に迎えたいのです」
「どの口がそんな甘言を?」
 簪を握り締めるヨナの手を、両の手で包み込む。彼女は嫌がって振りほどこうとしたが、スウォンは力を込めて決して離さない。
「この期に及んで、あなたはまだ私に対して、罪を重ねるつもりなの?」
「あなたを求めることの、何が罪なのでしょう?」
 猛々しい戦士の目をした皇女を、王はしかと見据える。
 理解して欲しいという願いは独り善がりだろう。だとしても、胸に秘めておくことはもうできそうもない。
 皇女が十六の誕生日を迎えたあの日。目の冴えるような暁の髪によく映えるであろう、華やかな花簪を見繕って手向けた。その真心に、断じて嘘偽りなどなかったのだということをーー。
「私は、あなたが欲しい。あなたが王位を継ぐ高貴の血筋であるからとか、後に恨みの火種が燻ることのないよう懐柔するためだとか、そのような打算から言っているのではありません。むしろそう解釈したい輩には、あえて誤解させたままでおくつもりです。ですがあなたにだけは、これを甘言などと勘違いして欲しくない。后を迎えるなら、あなたがいい。他の誰でもなく、あなたでなくては駄目だ。これが私の混じり気のない胸の内です。ーーいいですか、ヨナ。あなたが今対面しているのは、この高華国の王でも、あなたを裏切った不倶戴天の敵でも、子供時代をともに過ごした従兄でもありません。ただこの私が、スウォンという名の、何の肩書きも持たぬただ一人の男がいるだけです。素のままの私の心が、あなたという女性を求めてやまないのです」
 視界が滲み、ヨナの輪郭が朧気になる。ほとばしる思いが涙となって彼の白い頬を伝い落ちていた。
「あなたのことを大切にします。これまで私があなたにつけてきた多くの傷を、私のこの手で癒してあげたい。ーーですが、これは決して罪滅ぼしなどではありません。私はただ、他の誰の手にも、あなたを委ねたくはないのです」
 ややあって、はらはらと涙を落とす彼を黙って見上げていた彼女が、静かに口火を切った。
「自分本意な人だったのね、あなたって。……あんなに長い間一緒にいたはずなのに。私、やっぱりあなたのこと、何も知らなかったみたい」
 ヨナはもう二度と戻りはしない過去を辿り、懐かしそうに目を細める。彼はそのような眼差しを欲しているのではない。思いを寄せてもらいたいのは、過去ではなく、今の自分だというのに。涙ながらに訴えてももう、その心の琴線に触れることはまかりかなわないのか。
「もう何を言われても、あなたの言いなりにはならないわ。この城に留まる理由はない。だって私には、帰る場所があるんだもの」
「ーー帰る?一体、どこへ帰るというのです?あなたはこの緋龍城で生まれ、この城に生き、やがて歴代王族の眠る廟に入るべき人だというのに」
「私の居場所を奪ったあなたから、私の生き方を指図されるいわれはない」
「奪った居場所を、今、お返ししたいと言っているのです」
「要らないわ。ーーあなたは、ハクには遠く及ばないもの」
 開け放たれた扉の向こうから、たった今彼女が引き合いに出したその男の、呼ぶ声がした。皇女はこのうえなく幸せそうに、喜色を満面に浮かべて外を振り返る。その目にはもう、とうに心から追いやった男の姿など、微塵も見えてはいなかった。
「彼を愛しているの。私をずたずたに傷付けて放り出したあなたと違って、いつも私の傍にいて、私を思い遣ってくれるハクのことを。だから私、ハクのところへ帰るの。何度引き離されそうになったとしても、ハクの傍を離れないと約束したわ。私は彼のすべてで、彼は私のすべて。誰にも代えられない私の居場所。あなたの傍になんて、私はもう一秒たりとも居たくない」
 スウォンの手から力が抜けた。その瞬間を見計らい、ヨナは静かに一笑して彼の戒めから逃れた。支え手を失った簪が甲高い音を立てて床に落ちる。その衝撃で花細工が欠けてかけらが飛び散ったが、彼のすべてに見切りをつけた彼女はもう、過去の遺物になど見向きもしない。鮮やかな赤髪がスウォンの目と鼻の先で波打つ。ーーふと、彼女の「遺髪」が手元に届けられた時、涙を流せないかわりに、誰にも知られぬところでその一房に口づけをしたことが思い出された。決して手に入らないと悟った瞬間、定めに抗うかのように、心がこれほどまでに強く追い求めようとする。遥か彼方の暁の空にも似た、その輝かしい髪をもつ皇女。
 迷いなき後ろ姿に呼び掛けても、答える声がある筈もない。彼女は決して振り返ることなく、光差す扉の向こうへ、愛しい男の待つ場所へと飛び出していった。スウォンもまた焦燥に駆られ、主に見棄てられた簪を手に外へ出るが、そこではっきりと目が覚め、ようやく自分が夢を見ていたのだということに気付く。
「ああーーなんという夢だ」
 まだ燭台の明かりが消えていない。書簡に目を通しながらうたた寝をしていたようだ。ひどく喉の乾きを覚えたが、水差しを取るために寝台から身を起こすことさえ億劫だった。
 枕の下から布にくるまれたものを取り出す。火の部族長の次男がいつぞや手ずから届けに来た、ヨナ姫の遺髪だ。捨て置けばいいものを、このようにねんごろに寝所などに隠している。夢見が悪いのは、先王の皇女の亡霊に憑かれているからだろう、などと側近に知られればたしなめられるに違いない。
 スウォンは遺髪を胸に抱き、目を閉じる。この遺髪が届けられた時よりも、遥かに深い喪失感に見舞われていた。
「ヨナ。ーーあなたはもう、私がどれほどあなたの名を呼んでも、私の名を呼び返してすらくれないのですね」
 彼女は遠く離れた対岸にいる。
 彼は此岸からないものねだりをしている。
 自ら焼き払ってしまった橋を、再び向こう岸へ架け渡す術を彼は知らない。
 かつて父の手により、禁書の憂き目に遭った建国神話に出てくる龍であれば、このような隔たりなどものともせずに飛び越えてしまうのだろう。
 だが残念ながら常人でしかない彼は、空の飛び方など知ろうはずもないのだ。







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